切実さについて

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今週も仕事を終えました。
こうして、ようやくこの数週間を振り返る時間ができた。

岡本太郎賞を授賞してから。
中学、予備校、大学の友人たちと、Facebook上でつながり始めました。
今までは「人に見せられる作品がない」という後ろめたさで、何となく遠ざかっていたのですが…。

いざFacebookを始めて、Twitterにも触れてみて、作品を展示して、と段階を踏んで外に出ていくうちに、私の中で停滞していた空気が、開け放たれた窓から抜けていくような感覚がありました。
Facebookをのぞいてみて、
ああ、この人はこんな作品を作っていたのか。
この人は教員になってる!
あの子がママになってる!
この人たち友達だったのか。
…この子、老けたなあ。
といった具合に、時の流れに只々驚くばかりです。
周囲との関係性が、一気に可視化された気がします。
それが良いか悪いかは、別として。

私が出品した「青空があるでしょう」という題の壁画は、こういった透明性とは一切縁のない、一人ぐるぐると反問し続けた「よどみ」の中から生まれてきました。

「自分の肌感覚にまでのぼってきたリアリティーを表現したい」
という、率直な気持ちから作られたはずの作品が、なぜよどむのか。
その理由として、制作中、もう一人の自分から絶えず要求され続けてきたことがあります。

「自分の肌感覚とは、このご時世に時代錯誤もはなはだしい。
厭世家ぶったマネゴトもやめて、真っ向から勝負しなさい。
いわんや「美術」を標榜するのなら!
作品の細部にいたるまで全てが作家の想定内であり、あくまで客観的に説明できなくてはいけない。
美術の文脈の先端に自作を打ち込もうとする努力を怠って、安易なヒューマニズムに堕してはいけない。
マーケティングを一から学び、売れる美術作品という物を自分なりに追求して行かなくてはいけない。
自然環境、国際情勢、政治社会に密接にコミットした作品、コンセプトを打ち出して行かなくてはいけない。」
といった具合です。
どれも、自分の作品を真の美術たらしめるには、必要な要素だと思います。

ただ、これらの要素を自分に課したときに、語尾がおのずと、
「~してはいけない」
「~しなくてはいけない」
「~するべきだ」
と、どこか義務的になってしまう。
こういうマッチョな語尾というのが…どうも嘘くさい。
自分の中に、自他に対してコントロールフリークに陥らずには済ませられない、男性的な臆病さを見てしまう。

それは何か…違うよな。
というのが、私の正直な気持ちです。
結果、どの美術要素も含まない作品が出来上がりました。
これは一体、何だろう?と思います。
「壁画」としか、言いようがありません。

もう一人の私が、再び問いかけてきます。
「お前にも幼い子供がいるだろう?
その子供がこれから暮らしていく社会というのがあるだろう?
お前たち家族は生きながらにして既に、社会的生き物なのだ。
親であるはずのお前が、自分たち家族の置かれている立ち位置すら知らずに、何が表現だ。
今世の中で起きている事柄もすべて、お前たちの生活と何かしら関連があるのだ。
そのつながりを想像する事をやめてしまって、肌感覚などと開き直るな」

それは…おっしゃる通りかも知れません。
本当にすみませんでした。
誰しも、わが子と向き合ったり、仕事を通して社会と接していれば、自然と突き当たる社会問題というのがあります。
私で言えば、障害者の自立支援をめぐる困難、出生前診断の是非、待機児童の問題、非正規雇用からくる生活不安などです。
そうやって対外意識をどんどん拡張していけば、やがては難民問題にも、国際テロの脅威にも行き当たるでしょう。意識せずとも、テレビやパソコンやiPadからは世界と国内のニュースが洪水のように流れてくるのですから。

ただ、そこまで多様で複雑な切り口から、わが家を見つめる必要が果たしてあるのか?というと…少々疑問です。
逆なんじゃないのかな?と思う時があります。

国際情勢からわが家との接点を探っていくのではなく、わが家からじょじょに外側へと関心が広がっていくのが、自然なことだと思うのですが…。
そして、わが子と同じ切迫さを持つ情勢とは、いかほどの物なのか?とも思います。

うちの2歳の息子は、よく一人で電車ごっこをして遊んでいます。
その時の息子の声をipodに録音して、朝の通勤電車内で聴いてみたことがあります。
スーツと香水とひじ鉄でせめぎ合う満員電車内で、神経をピンと張りつめながら職場(戦場)に向かう自分を、きっと奮い立たせてくれるだろうと期待したのですが…
結果は、真逆でした。
「ハッシャシマース。キーロイセンノ、ウチガワデ、オカワリクダシャイ」
イヤホンの奥から、息子のうろ覚えの発車アナウンスが聴こえて来たとたん、涙腺がゆるみ、全身の力は抜けて、出勤どころではなくなってしまいました。
「おさない息子の声は、出勤前に聴いちゃいけない。」
そう痛感した朝でした。

それにしても、あの時のイメージの力強さは、一体何だったのだろう?と思い出します。
息子の、体の比率に対して大きな頭と、きゃしゃで頼りない肩。
そのうしろ姿が、殺伐とせわしない電車内で、私の脳裏にまざまざと蘇ってきたのでした。
そんな息子を思い、いじらしいというか、気の毒というか、いたたまれない気持ちになるのは何故か?
この感情はどこに起因しているのか?

こういった、きわめて私的な感情の方が、自分にとってよっぽど切実なのです。
自分にとっての「切実」と、どこまでも向き合っていきたいものです。

私が次の作品のテーマを探している時、常にスタート地点にあるのは「生きている不思議」です。
「生きている」と言っても、一時的に分子が集まり、「私」っぽい物をモヤモヤと形成したかと思うと、またすぐに元の世界へと拡散していく。
たぶん、それだけの話です。
悠久の宇宙の中においては人間の一生など、チリにも満たない。
そのむなしさは、旧約聖書「伝道の書」の中で、ソロモン王が嘆いています。
ペルシャの詩人オマル・ハイヤームも、詩集「ルバイヤート」の中で、永続性のない命に打ちひしがれています。
ソクラテスの弟子であるパイドンは、毒杯を仰いで死のうとする師を前に、「魂の不滅」について尋ね続けました。
当たり前といえば当たり前なのですが、かように人の生き死にというのは、昔から人間における根幹のテーマだったんだなあと、つくづく思います。

いま生きていて、刻々と死にゆく私。

この事実と向き合う芸術こそが、本来なんじゃないでしょうか?
いや、「本来」なんておこがましいか。そうであってほしい、という個人的な願いです。他人の作った作品にも、やはりそういった要素を探してしまう自分がいます。

もちろん、古典に根拠をおいて「だから正しい」とか「そうするべきだ」とするのは、忌避すべき判断だと思います。そういう確信というのは、保守側に立った安堵からくる単なる思考停止であって、意志ではない。

それでもやはり、古代イスラエルで、ペルシャで、アテナイで、インドで、人間は何千年経っても、命というはかなさを憂いつづけてきたのは確かです。これからもずっとそうでしょう。

自分も、奇跡のようなこの「私」という一回性の運動体を駆使して、見たり、聞いたり、読んだり、悩んだり、作ったりし続けたいと思います。
どこまでも深く、掘り下げていくような芸術を形にしていきたい。
それにはまず、一人になることです。

人間、孤独になってみないと、わからない事がある。

一人で考える。一人で描く。一人で作る。

その結果、出た答えがたとえイビツであろうと、稚拙であろうと、結局は自分との対話の中からしか、純度の高い「切実さ」は見つけられないんじゃないか、と思うのです。
これはきっと、たくさんの人と議論し合って、切磋琢磨して導き出す類いの物ではないと思います。
どうせするのであれば、ソクラテスが愛弟子とお互いの信頼(愛情?)のもと、美しい真理に向かって探求し続けたような、そんな対話形式でありたい。そう思います。

そんなわけでまた、慣れ親しんだ一人語りのブログに戻ってきました。
読み返してみると、何だか新興宗教の勧誘冊子に載ってるような文章だな…まあ、いいや。
これからも色々挑戦していこう。

しかしいい加減、親バカからは卒業しないとな〜
by kan328328 | 2016-02-14 11:06 | アート

美術作家・三宅感のブログです


by kan miyake
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