見立てるのがステキ
2018年 01月 21日
息子とふたりでプラネタリウムを観に行った。
きらめく銀河星雲、
膨らみつづける宇宙空間、
そしてナゾの物質・ダークマター。
この宇宙がいかに壮大なドラマで成り立っているか。
「自分」というものが、いかに奇跡的な存在か。
そういった気づきを、ドハデなCGや音響を駆使して、
コレでもか!コレでもか!と促してくるプラネタリウム。
鑑賞している自分も、
「そうそう、生きてるってすごい事だったわ」
と、命の一回きりをしみじみと思い出すのだけど、
いざ上映が終わって外に出れば、
帰りのバスは、花小金井駅下車?田無駅下車?
子供のDVDは、ツタヤで借りる?ゲオで借りる?
スーパーで買う夜食は、赤いきつね?緑のたぬき?
といった、
生活味あふれる選択肢が次々と現われて、
さっきまでのコズミックな余韻はかき消されてしまう。
しかし男のロマン脳というのは、
日常へスムーズに移行できるほど器用ではなく、
ダークマターと赤いきつねのギャップに疲れた俺は、
スーパーの売り場でボーッと立ちつくし、
息子に、
「あれ・・・何買うんだっけ?」
とたずねると、
「グミ!」
と言うので、
「ああ、グミか・・・」
と、急かされるままコーラグミを買って家に帰る。
そして、モグモグとグミをほおばる息子の顔を見ながら、
「赤いきつね、買ってないじゃん・・・」
と、思い出すのだった。
完全にプラネタリウムに心奪われている。
あんなの、星に見立てた、ただのライトなのに。
ただの見立てなのに。
夜空にたくさんの星がかがやくように、
この世界には無数の記号たちがひしめき合っている。
ことばも、モノも、文化も、
先祖からひき継ぐ文脈から生まれてきた以上、
一つ一つに意味や用途がベッタリとくっついており、
それをムシして使用することは許されないのが、
この現代社会である。
でも、その属性がたまに、ペロリとはがれ落ちる。
その途端、世界のすべてが茶番に思えてきて、
木魚をたたくお坊さんも、
泣きながら砂を集める高校球児も、
鼻に洗濯バサミを挟んだシンクロ選手も、
みんなして俺を笑わせようとしているようで、
ついウフフ、アハハ、ゲラゲラと笑ってしまう。
たとえばハンバーガー屋に行って注文する際、
レジのお姉さんに、
「フライドポテトにふりかけるフレーバーは、メキシカンタコス味と、トリュフステーキ味と、チーズフォンデュ味と、どれになさいますか?」
と聞かれたりすると、もうたまらない。
ただの粉末に大げさな料理名が付いてるのがおかしく、
子供のオママゴトに答えるような恥ずかしさから、
「えっと、じゃあチーズフォ・・・ン、デュフフッ!」
と吹き出してしまいそうになる。
もちろんホントに笑うわけにはいかないので、
グッとこらえて注文するけど。
「見立てる」って行為は、どこかオカシイ。
料理に見立てた調味パウダーに限らず、
スーパーの寿司にくっ付いてくるビニール製の葉っぱ、
ランの花を模したプラスチックの光触媒、
ひよこの形のおまんじゅう、
木目をプリントしたカーペット生地、
AIBO、ファービー、たまごっち。
自然に見立てた人工製品というのは、
どうしてこうも、こそばゆいのか。
こちらのゴッコ気分まで刺激されるようで、
可愛く、いじらしい。
おシゴト、行てキマスー
オトサン、オカサン、おかえりナッサイー
小銭は鉄クズ、お札は紙キレ、
お茶チャは葉っぱの煮汁デスゥ・・・
夢を見ているみたい。
by kan328328
| 2018-01-21 07:07
| 日常