じゃがいもの実存
2013年 07月 26日
ひとり制作をしていると、いまこの瞬間「偉大な者」とつながっている、という実感がある。
もしくは自分自身がそれだ、といったような。
心魂打ち込んで制作したことがある人なら誰しも、一度は経験したことがあるだろう。
今の自分がそれである。完成までこの作品を公開できないのが残念だ。
ところでうちの二軒となりに住む男性はおそらく統合失調症で、24時間365日朝から晩まで庭先にでては「あなたが!あなたが!」と絶叫している。
こっちはこっちで人知れず「偉大な者」とつながっている。
かわいそうなのはその「あなた」と「偉大な者」にサンドイッチされている隣の家だ。恐怖である。
昔から、孤独な人にめろめろなのである。
どこかに言葉をのんでただ悄然と立ちつくす青年があれば、おれは行って、とっておきの色を塗ってあげたいと思う。
芳醇な栄養を含んだような、ねっとりと濃いサフラン・イエロー。
生活にイロドリを!とはよく言ったものだが、色にもいろいろある。
「パステルカラーの生活」なんてのはまず、あやしい。
ポテトチップスの「〇〇フレーバー」のように、じゃがいもにハラハラと粉化粧するだけなのがパステルカラー。
生活ってのはどこまでもじゃがいもなんだから、無理に化粧で隠そうとしなくても良い。
どうせ隠すならもっと重たい色、たとえば濃いチェダーチーズ・イエローを下地が見えなくなるまで塗りたい。窒息しそうなくらい厚く。
そこにさらに詩情をそえようと思ったら、バーナーで焦がせばいい。
たちまちイエローの表面はセピアに焼けて色あせ、過ぎ去りし年月をそこに感じさせてくれるはずだ。
歯をみがく。
土手を散歩する。
赤ん坊をあやす。
夢をみる。
インゲンを炒める。
草むしりをする。
そんな生活の一場面を手掴みでこねて、胸いっぱいの色を塗りたいと願う。
これを俺はいつからか「実存」と呼んでいて、あながち間違ってもいないはずだ。
「激しい」生活は望んでいない。「激しく」生活したい。
淡々とした生活を、ガムのように噛んでみたい。
by kan328328
| 2013-07-26 03:49
| アート