4つのメッセージ
2016年 03月 06日


自分に伝えておきたいことが4つある。
まず1つめ。
「自信を持とう」。
よくやったね。
青空があるでしょう。
とても良い作品だ。素晴らしい!
こういう時くらい、自分で自分を一番ほめよう。
展示も残す所、あと1ヶ月。
頭の中だけで思い描いてきた光景がいま、目の前にひろがっている。
この感動を忘れないように。
君の自己評価はなかなか安定しないね。
もっと自信を持っていいよ。
2つめ。
「不確定要素を愛そう」。
これはとても重要な事だ。
何度言っても足りないくらい。
なので、話は長くなる。
君は昔から心配性の気がある。
アトリエからの帰路、君がいちいち気にしていた事柄を思い出してほしい。
「アトリエの電気ストーブがつけっぱなしだったかも…」
「壁画の転倒防止用ロープがゆるくて、今ごろ倒壊してるかも…」
「天井から雨もりしてたけど、壁画に水がたれて粘土が溶けてしまっているのでは?」
「ネズミのフンらしき物が落ちてたけど、壁画のスチロール部分を食い荒らしてるんじゃないか?」
これらの不安で、せっかく来た道を何百メートルも戻ったことは、一度や二度ではないだろう。
アトリエに戻ってみても、もちろん何も起こってはいなかった。
そうやって一体、どれだけムダな確認作業を繰り返してきたんだろう?
窓から入る日光で作品が色落ちした気がして、せっかく塗ったニスの上からまた同じ色を塗り直す。
作品をプチプチで梱包した後、ニスの乾いてない部分にくっついたのでは…?と、慌ててプチプチを全部はがす。
防塵マスクをしているのに、じん肺の不安にさいなまれ続ける。
じつに不毛だと思う。
しかし、最も良くないのは、
「歩いてて花を踏んでしまったので、入選しないのでは?」
「初詣の神社でおみくじを引かなかったので、大賞をもらえないのでは?」
「ラーメン屋を出るときに「ごちそうさま」を言いそびれたので、壁画が完成しないのでは?」
これら、幾度となく頭をよぎった不安にいたっては、もはや脈絡すらない。
本当、くだらないよ。
こうやって文章に起こしてみると、よりバカバカしさが際立ってくるようだ。
これらの要素が「壁画未完成」という最も怖れた事態に、どうやったらつながるというのか?
相互の因果関係について考えもしないで、ただ闇雲にバチやら運やらにおびえるのは、もうよそう。
「関係ない」ことは、「関係しない」んだ。
風が吹いたって、桶屋は儲からない。すべて杞憂だったんだよ。
この先まだまだ、似たような事案にはたくさん突き当たるだろうから、これをよく覚えておいてほしい。
また、どうしても逃れられない不安が襲ってきたとき。
そのときは、テニスプレーヤーのナダルみたいにペットボトルのラベルの向きを決めたり、イチローみたいに毎朝カレーを食べたりする方法もある。
いわゆる「ルーティン」ってやつだ。
プロスポーツ選手が活用する知恵はきっと、美術制作にだって活かせるはずだ。
自分の行動に規則性を持たせることで、一時的にすべての不安を排除する。
でも、それを長いあいだ維持させようとするのは、根本的な解決にはならないどころか、どんどん悪化していく恐れもあるんだ。
やっぱり一番の解決策としては、不安は超克しようとせずに(どだいムリな話)、ただ観察すればいい。
「あー、いま不安になってるな」と。
そのときに、自分の状態をあーだこーだとジャッジしない。これがよくない。
瞑想でもいい。
メタ認知でもいい。
自然に自己を観察できるんなら何でもいい。
そうすると、だんだんと心と体が一致するんだ。
これはそっくりそのまま、介助仕事についても言えることで。
脳性マヒの方の筋緊張を見ていると、心と体は連動してるってことがよくわかる。
心が外側に張り出したものが、体なんじゃないかと思うくらい、密接にリンクしている。
周りが焦らせたりすると、筋緊張(つっぱり、こわばり)はどんどん強まる。
施設において、「力を抜いて!」と通所者の腕を力まかせに戻そうとする職員の姿は往々にして見られるが、そんな時は
「その緊張を誘発させているのはあなたですよ」と伝えた方がいい。
職員と通所者のペースは、まったく違う。
職員があたりまえにできる作業も、障害があることで、とても時間がかかったりする。
低賃金、過重労働、人員不足で、職員が通所者一人一人とゆっくり向き合う時間はない、ってのがどこも実情だろうけど…
本当は相手のペースを「見守る」ことが理想だ。
だって世の中には、通所者のトイレ時間まできっちり決めさせる職員もいるわけで。
「あなたのトイレは◯時と◯時。それ以外、トイレ介助は受けつけません!」と言って、ドアの前で腕組みして立ちふさがる(過去に実際いたらしい)。
なら自分のトイレ時間も決めなよと思うけど、それはしない。
他人の生理現象までコントロールしようとする人は、自分の思い通りにいかない事が不安なのかもしれない。
たしかに、イレギュラーなことばかり起きて、そのたびにアドリブをくわえつつ対応するのは大変なことだ。それは、わかる。
君も昔、映画の現場で助監督をしたとき、予定表作りが楽しすぎて、スタッフの動きを分単位でキチキチに割ったスケジュール表を出して、苦笑されたことがあるね。
物事の効率化、人生設計、スケジュール管理。
こういうのって、やり始めるとすごい楽しいんだな。
自分も他人も外界(天気や気温などの森羅万象)もすべて、自分の管理下に置いているような気になる。
未知なるもの(他人、未来、自然)に対する不安がどんどん消えていくんだ。
でも、その予測可能だったはずの「他人」や「未来」が、思わぬ方向に動き出したとき。
予定調和からズレはじめたとき。
一転、人はパニックになるんだ。
慌てふためき、周りにイライラ当たり散らしたり、計画をすべてオジャンにしたり、絶望的に落ちこんで無力になったり、手がつけられなくなる。
だからね、君。
本当はもっと、人生における「不確定要素」を愛したほうが、はるかに良いんだよ。
それが「自然」に生きるってことで、「他人」と生きるってことなんだ。
トイレで用を足したはずなのに、すぐにまた行きたくなることもあるよ。
天気予報が晴れるといっても、雨にぬれて帰ることだってあるよ。
うまくいくときもあれば、うまくいかないときも多々あるよ。
この世に、予定調和なんてないよ!!
3つめ。
「カテゴライズを急ぐな」。
2つめの話にもつながることなんだけど。
君はもっと、西洋的にガツガツとカテゴライズして進もうとせずに、東洋的なグラデーションに飲まれたほうがいい。
1と2の間には無限の数列があって、ドとレの間にも無限の音階があって、白とベージュの間にも無限の色調があって、岡田真澄とスターリンの間にはまだまだ無数のそっくりさんがいるはずで、荘子がチョウチョに変幻するまでには無数のあやしい生き物がいるはずだ。
「障害者と健常者」などという区分ですら、いかに適当であいまいなものであるか、介助の仕事を通して、君も直接感じてきたことだろう。
ヘルパーで入ってる利用者さんがよく言っていたのは、
「障害者としてではなく、僕自身を見てください」
という事。
じつにあたりまえの事だ。
あたりまえの事なのに、なぜか忘れてしまう。
相手を一定のカテゴリーに入れてから見たほうが、自分の解釈を進めるのには都合がいいからだ。
男、女、障害者、外国人、同性愛者、~系、~主義…。
そしてさっさと断定してしまって、それ以上その人について言及しようともしない。
ぜんぶ自分都合の話だ。
いつまでたっても他人には不可知の領域があるということ。
それを忘れてはいけないんだ。
家族のことも、友達のことも、知り合いのことも、本当は何にもわかっちゃいない。
自分のことだって、実は全然わかりゃしないんだから。
小説家のミラン・クンデラが、何かの本で言っていたよ。
「愛とは、相手にたえず問いかけ続けることである。」
どんなに長年連れ添った相手にも、クエッションを持ち続けること。
こうだ!と一くくりに決めつけて、安心しない。
ひとりの人間から、無限に「なんで?」を汲み出そうとすること。
ひさしぶりの友人に会って楽しく会話した日は、そのときの印象だけをお土産にして、家路につく。
料理中に、風呂の中で、布団の中で、ふと、友人の言葉を思い返す。
「あいつはなんで、あんな事を言ったんだろう?」
「あの人、本当はこういう事が言いたかったのかな?」
「あの子にこう言ったら、なんて答えるだろう?」
LINEでさっさと返答を求めるのもいいけど、とりあえず、一人ぼんやりと相手の真意を想像してみる。
そのときに、思い違いをしてもいい。相手を買いかぶったっていい。
そもそも絶対的客観性などは存在せず、この世界は各々の解釈だけで成り立っているわけで。
相手の心に思いを馳せること自体、とても人間的で、あたたかい行為だ。
ジョンレノンの、
「想像してごらん」
ってのは、ここから来てるんじゃなかろうか。
急いでカテゴライズしないこと。
これだけは本当に、どうか忘れないでほしい。
君は自分のこと人間だと思っているけど、100年もしないうちに、どこかの家の食卓に上がっていますからね!!
そして4つめ。
「形にしなさい」。
こうやって文章にしてみると、君の中の何やら一貫したテーマが見えてくる。
これをもっと堂々と、具体的な形に持って行きなさい。
君の仕事と、本来持っている気質、表現の嗜好性、そのすべてがつながるテーマだと思うから。
構築、確立する力というよりはむしろ、分散、溶解する力に近いのかな。
むずかしい…。
作るという行為は、どうしたって固体化させる力が必要になってくるから。
それがコンセプトの設定であり、材料の成形ということなんだけど。
物質を使って空気を表現するには?という問いが出てくる。
それには「見立てる」力が必要だ。
そこに無いものを力強く想起させる「見立て」には、どうしても知性がいるな。
知性か…。
よし、勉強しないと。
と、何だかあたりまえな着地をしました。
まず1つめ。
「自信を持とう」。
よくやったね。
青空があるでしょう。
とても良い作品だ。素晴らしい!
こういう時くらい、自分で自分を一番ほめよう。
展示も残す所、あと1ヶ月。
頭の中だけで思い描いてきた光景がいま、目の前にひろがっている。
この感動を忘れないように。
君の自己評価はなかなか安定しないね。
もっと自信を持っていいよ。
2つめ。
「不確定要素を愛そう」。
これはとても重要な事だ。
何度言っても足りないくらい。
なので、話は長くなる。
君は昔から心配性の気がある。
アトリエからの帰路、君がいちいち気にしていた事柄を思い出してほしい。
「アトリエの電気ストーブがつけっぱなしだったかも…」
「壁画の転倒防止用ロープがゆるくて、今ごろ倒壊してるかも…」
「天井から雨もりしてたけど、壁画に水がたれて粘土が溶けてしまっているのでは?」
「ネズミのフンらしき物が落ちてたけど、壁画のスチロール部分を食い荒らしてるんじゃないか?」
これらの不安で、せっかく来た道を何百メートルも戻ったことは、一度や二度ではないだろう。
アトリエに戻ってみても、もちろん何も起こってはいなかった。
そうやって一体、どれだけムダな確認作業を繰り返してきたんだろう?
窓から入る日光で作品が色落ちした気がして、せっかく塗ったニスの上からまた同じ色を塗り直す。
作品をプチプチで梱包した後、ニスの乾いてない部分にくっついたのでは…?と、慌ててプチプチを全部はがす。
防塵マスクをしているのに、じん肺の不安にさいなまれ続ける。
じつに不毛だと思う。
しかし、最も良くないのは、
「歩いてて花を踏んでしまったので、入選しないのでは?」
「初詣の神社でおみくじを引かなかったので、大賞をもらえないのでは?」
「ラーメン屋を出るときに「ごちそうさま」を言いそびれたので、壁画が完成しないのでは?」
これら、幾度となく頭をよぎった不安にいたっては、もはや脈絡すらない。
本当、くだらないよ。
こうやって文章に起こしてみると、よりバカバカしさが際立ってくるようだ。
これらの要素が「壁画未完成」という最も怖れた事態に、どうやったらつながるというのか?
相互の因果関係について考えもしないで、ただ闇雲にバチやら運やらにおびえるのは、もうよそう。
「関係ない」ことは、「関係しない」んだ。
風が吹いたって、桶屋は儲からない。すべて杞憂だったんだよ。
この先まだまだ、似たような事案にはたくさん突き当たるだろうから、これをよく覚えておいてほしい。
また、どうしても逃れられない不安が襲ってきたとき。
そのときは、テニスプレーヤーのナダルみたいにペットボトルのラベルの向きを決めたり、イチローみたいに毎朝カレーを食べたりする方法もある。
いわゆる「ルーティン」ってやつだ。
プロスポーツ選手が活用する知恵はきっと、美術制作にだって活かせるはずだ。
自分の行動に規則性を持たせることで、一時的にすべての不安を排除する。
でも、それを長いあいだ維持させようとするのは、根本的な解決にはならないどころか、どんどん悪化していく恐れもあるんだ。
やっぱり一番の解決策としては、不安は超克しようとせずに(どだいムリな話)、ただ観察すればいい。
「あー、いま不安になってるな」と。
そのときに、自分の状態をあーだこーだとジャッジしない。これがよくない。
瞑想でもいい。
メタ認知でもいい。
自然に自己を観察できるんなら何でもいい。
そうすると、だんだんと心と体が一致するんだ。
これはそっくりそのまま、介助仕事についても言えることで。
脳性マヒの方の筋緊張を見ていると、心と体は連動してるってことがよくわかる。
心が外側に張り出したものが、体なんじゃないかと思うくらい、密接にリンクしている。
周りが焦らせたりすると、筋緊張(つっぱり、こわばり)はどんどん強まる。
施設において、「力を抜いて!」と通所者の腕を力まかせに戻そうとする職員の姿は往々にして見られるが、そんな時は
「その緊張を誘発させているのはあなたですよ」と伝えた方がいい。
職員と通所者のペースは、まったく違う。
職員があたりまえにできる作業も、障害があることで、とても時間がかかったりする。
低賃金、過重労働、人員不足で、職員が通所者一人一人とゆっくり向き合う時間はない、ってのがどこも実情だろうけど…
本当は相手のペースを「見守る」ことが理想だ。
だって世の中には、通所者のトイレ時間まできっちり決めさせる職員もいるわけで。
「あなたのトイレは◯時と◯時。それ以外、トイレ介助は受けつけません!」と言って、ドアの前で腕組みして立ちふさがる(過去に実際いたらしい)。
なら自分のトイレ時間も決めなよと思うけど、それはしない。
他人の生理現象までコントロールしようとする人は、自分の思い通りにいかない事が不安なのかもしれない。
たしかに、イレギュラーなことばかり起きて、そのたびにアドリブをくわえつつ対応するのは大変なことだ。それは、わかる。
君も昔、映画の現場で助監督をしたとき、予定表作りが楽しすぎて、スタッフの動きを分単位でキチキチに割ったスケジュール表を出して、苦笑されたことがあるね。
物事の効率化、人生設計、スケジュール管理。
こういうのって、やり始めるとすごい楽しいんだな。
自分も他人も外界(天気や気温などの森羅万象)もすべて、自分の管理下に置いているような気になる。
未知なるもの(他人、未来、自然)に対する不安がどんどん消えていくんだ。
でも、その予測可能だったはずの「他人」や「未来」が、思わぬ方向に動き出したとき。
予定調和からズレはじめたとき。
一転、人はパニックになるんだ。
慌てふためき、周りにイライラ当たり散らしたり、計画をすべてオジャンにしたり、絶望的に落ちこんで無力になったり、手がつけられなくなる。
だからね、君。
本当はもっと、人生における「不確定要素」を愛したほうが、はるかに良いんだよ。
それが「自然」に生きるってことで、「他人」と生きるってことなんだ。
トイレで用を足したはずなのに、すぐにまた行きたくなることもあるよ。
天気予報が晴れるといっても、雨にぬれて帰ることだってあるよ。
うまくいくときもあれば、うまくいかないときも多々あるよ。
この世に、予定調和なんてないよ!!
3つめ。
「カテゴライズを急ぐな」。
2つめの話にもつながることなんだけど。
君はもっと、西洋的にガツガツとカテゴライズして進もうとせずに、東洋的なグラデーションに飲まれたほうがいい。
1と2の間には無限の数列があって、ドとレの間にも無限の音階があって、白とベージュの間にも無限の色調があって、岡田真澄とスターリンの間にはまだまだ無数のそっくりさんがいるはずで、荘子がチョウチョに変幻するまでには無数のあやしい生き物がいるはずだ。
「障害者と健常者」などという区分ですら、いかに適当であいまいなものであるか、介助の仕事を通して、君も直接感じてきたことだろう。
ヘルパーで入ってる利用者さんがよく言っていたのは、
「障害者としてではなく、僕自身を見てください」
という事。
じつにあたりまえの事だ。
あたりまえの事なのに、なぜか忘れてしまう。
相手を一定のカテゴリーに入れてから見たほうが、自分の解釈を進めるのには都合がいいからだ。
男、女、障害者、外国人、同性愛者、~系、~主義…。
そしてさっさと断定してしまって、それ以上その人について言及しようともしない。
ぜんぶ自分都合の話だ。
いつまでたっても他人には不可知の領域があるということ。
それを忘れてはいけないんだ。
家族のことも、友達のことも、知り合いのことも、本当は何にもわかっちゃいない。
自分のことだって、実は全然わかりゃしないんだから。
小説家のミラン・クンデラが、何かの本で言っていたよ。
「愛とは、相手にたえず問いかけ続けることである。」
どんなに長年連れ添った相手にも、クエッションを持ち続けること。
こうだ!と一くくりに決めつけて、安心しない。
ひとりの人間から、無限に「なんで?」を汲み出そうとすること。
ひさしぶりの友人に会って楽しく会話した日は、そのときの印象だけをお土産にして、家路につく。
料理中に、風呂の中で、布団の中で、ふと、友人の言葉を思い返す。
「あいつはなんで、あんな事を言ったんだろう?」
「あの人、本当はこういう事が言いたかったのかな?」
「あの子にこう言ったら、なんて答えるだろう?」
LINEでさっさと返答を求めるのもいいけど、とりあえず、一人ぼんやりと相手の真意を想像してみる。
そのときに、思い違いをしてもいい。相手を買いかぶったっていい。
そもそも絶対的客観性などは存在せず、この世界は各々の解釈だけで成り立っているわけで。
相手の心に思いを馳せること自体、とても人間的で、あたたかい行為だ。
ジョンレノンの、
「想像してごらん」
ってのは、ここから来てるんじゃなかろうか。
急いでカテゴライズしないこと。
これだけは本当に、どうか忘れないでほしい。
君は自分のこと人間だと思っているけど、100年もしないうちに、どこかの家の食卓に上がっていますからね!!
そして4つめ。
「形にしなさい」。
こうやって文章にしてみると、君の中の何やら一貫したテーマが見えてくる。
これをもっと堂々と、具体的な形に持って行きなさい。
君の仕事と、本来持っている気質、表現の嗜好性、そのすべてがつながるテーマだと思うから。
構築、確立する力というよりはむしろ、分散、溶解する力に近いのかな。
むずかしい…。
作るという行為は、どうしたって固体化させる力が必要になってくるから。
それがコンセプトの設定であり、材料の成形ということなんだけど。
物質を使って空気を表現するには?という問いが出てくる。
それには「見立てる」力が必要だ。
そこに無いものを力強く想起させる「見立て」には、どうしても知性がいるな。
知性か…。
よし、勉強しないと。
と、何だかあたりまえな着地をしました。
by kan328328
| 2016-03-06 10:12
| アート