ミニマル・フィロソフィア
2016年 06月 11日
私の親友であり、復顔師/科学コミュニケーターとして活躍中の戸坂明日香さん。
彼女とひさしぶりに再会したとき、言われたことがある。「昔三宅さんから聞いた『拾った砂つぶに念を込めてから遠くに投げると、涙が出る』という話を、今でもたまに思い出すよ。」
高崎の美術予備校生だった頃、たしかに私は戸坂さんにその話をした。
以下、取るに足らないミニマルな回想が続く。
そういう文章が嫌いな人はどうぞ読まずにスルーしてほしい。
聞く人によっては、「ケッ!みみっちい」と一蹴する類いのじつに些細なことである。
しかし私にとってはそれこそが、今の自分の根幹をなす重大なフィロソフィーの萌芽だと思っている。
なので、どうしても書かずにはいられないのだ。
彼女に話した「砂つぶに念を込めて~」とは、つまりこんな話である。

子供のころ、よく一人でやった遊びがある。
河原、もしくは学校の校庭に行く。
びっしりと校庭に敷きつめられた砂の中から、テキトーな1粒を拾いあげる。
そしてその1粒をじっと観察するのだ。
こまかな形状から微妙な色の変化にいたるまで、マジマジと見つめる。
目を閉じてもその形が思いうかぶくらい、マジマジと見る。
だんだん、その砂つぶが個性を主張し始める。
慣れ親しんでくるというか、「唯一の物」という実感がヒシヒシと湧いてくる。
トレンディドラマ風に言うと、その砂つぶに対して、
「もう、お前じゃなきゃダメかも…」
という気持ちにまで、高まる。
そこまできた時に、砂つぶをポーンと遠くに放るのだ。
その途端、悲しくなって涙が出るという算段だ。
あとはどんなに血まなこになって校庭をさがそうと、他の砂にまぎれてしまった「あの」砂つぶには決して出会えない。
それが子供の私にとっては何とも釈然としない、理不尽な事として感じられたのだ。
「この世には、どんなに手を尽くしても出会えないなんて事があるのか…」
と、子供なりに無常を知った瞬間でもあった。
それから程なくして、
「砂つぶに限った話じゃなく、葉っぱの一枚一枚にしても、雲の形にしても、この世に一つとして同じものは無いんだ」
という事が幼心に理解された。
そして、これら収まりきれんほど膨大な「唯一性」にとり囲まれている自分に気づいた時、もう目まいというよりヘラヘラ笑うしかないくらいの途方もなさを感じたのだ。
「世界、スゲーし…」
茫然自失と言っていい。
そんな哀しい砂遊びを私は、けっこういい年になるまで続けていた。
今思えば、じつに手軽で害のない遊びだったと思う。

これと同じルーツから来るであろう記憶が、アップリケの思い出だ。
遠い記憶すぎて、いつどこで経験したのかは思い出せない。
とにかく私は家族と大型フェリーに乗っていた。
おそらく5、6才の頃だろう。
デッキの手すりから、波しぶきをあげて進む船体を見おろしていた。
周りを見渡してみても、陸はいっさい見えない。
大海のど真ん中を、フェリーは堂々と進んでいた。
しばらくして、フェリーのスピードがノロノロと落ち始めた時だ。
海面の上をぷかぷかと、クマのアップリケがただよってきた。
(自分のズボンからはがれ落ちた物だったか…は思い出せない。)
直径10cmくらいの、クマキャラのアップリケである。
それが波間にユラユラあおられているのを見ているうちに、両足がすくむほどの恐怖を覚えた。
どこまでも広くて深い大海原に、ポツンと浮かぶアップリケ。
その絵があまりに強烈で、子供ながらに見ちゃいけない物を見た気がした。
その衝撃を言葉で表すなら、
「うわっ!孤独っ!!」
といった感じだろう。
ガツンとやられたのである。
あの時のアップリケは、今もアップリケのままなんだろうか?
何年経っても、というより年月が過ぎれば過ぎるほど、あのアップリケの現在というのは想像しがたく、ナゾは深まるばかりだ。
いまや繊維もほどけて海のモクズと化しているのか?
どこかの国の波止場に流れ着いて拾われているのか?
テトラポッドの陰にでもへばりついているのか?
20年以上経っても「あの」アップリケの事を案じているのは、おそらく自分一人だけだろう。
「もし自分が忘れてしまったら、あのアップリケと世界をつなぐ認識の糸は完全に切れてしまうんだな」
という心もとなさから、いつまでも脳裏に居座り続ける記憶となった。
「人間の目につかない場所でも、物はそのままの形で存在している」
この事実がどうしても信じられなかった。
理屈ではわかっているのに、実感がわかない。今でもわかない。

小学生の頃はまた、一升ビンのフタを集めるのがマイブームだった。
赤、青、黒、金とさまざまな色のフタには、謎の数字が書かれていた。
それらを山のように集めては、友達とレア度を競い合った。
ある日、お気に入りのフタを1個だけ、公園の隅の目立たぬ場所に置いてみた。
隠すつもりだったのかどうかはもう忘れてしまった。
そして1ヶ月くらい経った頃、もう一度その公園に行き、同じ場所を探した。
かくして、フタはそこにあった。あたりまえである。
しかし、何ともいえない感慨にしびれた。
「あ…ある!!!」
という具合に。
「まだあった!!」
という方が近いかもしれない。
「こんなに長いあいだ、ずっと同じ場所にあったのか…」
と、時間の流れをさかのぼるような、妙なクラクラを覚えた。
自分がクラブ活動をしたり、外をほっつき歩いたりしてる間も、ずーっとフタはここにあった、という事実。
何の気まぐれか私にそこに置かれて、小雨に打たれ、砂ぼこりに吹かれ、虫が横をはい、自然にさらされ続けてなお、微動だにせぬフタ。
その絵を想像すると、なんとも孤独で、神妙な気持ちになったものだ。
で、同じ感動をもう一度味わいたくて、今度はもっと寂しくて、へんぴで、ひなびた、わびしい場所にフタを隠した。
公園のトイレ、公衆電話、近所の廃墟の肉屋…
驚きの効果をあげるために、2ヶ月、3ヶ月となるべく期間を空けてからフタを探しに行った。
そして、同じ場所にフタを見つけては、クラクラしていた。
じつに不気味な小学生である。
不気味ではあるがしかし、その頃の自分がもっとも「世界のフシギ」に近づいた瞬間だったんじゃないか?と、そんな気もする。
その形容しがたい感覚を、私は誰かと共感し合いたくてたまらず、いろんな友達に話して聞かせていたように思う。
しかし、友達の反応は決まって、「あたりまえじゃん」だった。
その「あたりまえ」がすごいんじゃん!
なんですごいのかって?
うーん…。
それを説明できない自分の語彙の乏しさにいら立った。

そのうち、そういう些細な事にいつまでも心とらわれているのは、何だかヤボで、幼くて、気恥ずかしい事だ、という認識が自分にも生まれてきた。
砂つぶの唯一性やらアップリケの漂流やらは、公園に落ちているエロトピアやSPEEDの上原多香子の胸の谷間などの話題に取って代わり、いつのまにか姿を消した。
大人になったのだった。
しかし成長した今でも、その時の感覚をハッキリと思い出せる。
というより私にとっての大人とは、例えば車のキーを投げ渡された時に必ず片手でキャッチする能力だったりするわけだが、そんなの一度も成功した事がない。バレーのサーブよろしく地面にキーを叩きつけている。
スマートなキー・キャッチを習得し、さらに率先して「ッラーイ、ッラーイ、オーッケ!!」と自然なバック誘導まで出来なければ、真の大人とは言えない気がする。
自分にとっての大人とは、景色に自然となじむ事のできる人を指す。
とにかく私はこの感動を、人に伝わる形でもって何とか表現したかった。
子供時代には幾百とわいてきた、これら名状しがたきフシギ。
それらを列挙した大学ノートだけが、どんどん増えていった。
○渋谷のスクランブル交差点の地面にも、何らかの偶然でいまだ誰にも踏まれてない箇所があったとして、その部分を踏めば自分は「前人未踏の地をふんだ偉人」ってことになるのか?
○たまたま日本人が発音し忘れてるだけで、実はあかさたな以外の声音もあるんじゃないか?
○知人の肩を叩いてみて、振り返ったその首の動きに合わせて自分も水平移動したら、その知人には世界がスライドしたように見えるんじゃないか?
これらしょーっもない問いかけを全部まとめて1本の映画作品にしてしまい、自分の中から葬り去ってしまおう、と試みた事がある。
映画のタイトルは「感受性ベロン」。
ベロンというのは、皮膚がはがれて感受性がむきだしになった事を示す擬音だ。
このシナリオをなんとか物にするため、私は何年もかけて執筆に専念した。
ムダにクオリティの高い絵コンテも描きまくった。
この記事上に載せている絵は、その一部である。

高円寺に今は無き「琥珀」という喫茶店があり、
そこに毎日通いつめては「感受性ベロン」のシナリオと取っ組み合った。
アイスコーヒー1杯で10時間近くねばり、マスターから煙たがられた。
たまに唐十郎が来ては、アイスコーヒーを半分だけ飲んですっと帰って行った。
クリエイターとしての力量の差を見せつけられたようであった。
「感受性」という空をつかむようなテーマを選んだことで、執筆はかなり難航した。
必然、興味の先は自分の内面へと向かい、神経も過敏になり、目に映る電柱や空やスズメや違法駐車のクルマや、見る物すべてが「いわく意味ありげ」に迫りくるようになった。
アパートに帰っても、隣家の話し声や物音にやたらと敏感になり、わけがわからず、脳がクリームソーダのようにシュワシュワと泡立ち、溶け合ってこぼれ、やがて頓挫した。
自分の本名であるところの「感」そのものに負けたのだ。
もはや「感受性」と言う単語にすら嫌気がさし、「それ」と言いかえて使っていた時期もあった。
「それ」は劇薬である。
常用し過ぎると神経がやられる。
「それ」が常態になると、街にあふれる建物や自然などの名前、意味、カテゴリーがことごとく消え去ってしまい、それこそ「一回きりのナニか」としてなんとも生々しく目前に迫ってくるのだ。
でも「それ」は、上手に使いさえすれば、芸術作品として十分に昇華される力を秘めている。
「それ」は、くもりのない気づきでもある。
哲学者の井筒俊彦は「それ」に、イスラム哲学から導き出した「フウィーヤ」という言葉を与えつつ、一大東洋哲学体系を築いた。
芥川龍之介は「それ」におちいって異色短編「歯車」を、
サルトルは小説「嘔吐」を、
アントナン・アルトーは「神経の秤」を、
ル・クレジオは「物質的恍惚」を執筆した。
ジェーン・カンピオンは短編映画「キツツキはいない」で、「それ」のポップな側面をあざやかに切り取った。
ニジンスキーとアルトーは身体でもって「それ」を体現した。
シド・バレットや初期のジョン・フルシアンテは音によって「それ」を奏でた。
松本人志に始まり、ふかわりょうやロバートの秋山は「それ」の持つ、初々しい違和感を忘れていない人であり、そこから数々のコントやあるあるネタが生まれた。と、勝手に私は思っている。
「それ」は、使いようである。
「それ」は、純粋無垢なアンテナである。
そんなわけで、30を過ぎても砂つぶの話をたまに思い出すという戸坂明日香さんは、まず間違いなく「それ」を持ち合わせており、感受性ベロンでもあるわけで、「ミス・ベロン」の称号を授けたい。
今にして思えば、この映画が完成していたら、
かなりのカルト作品になっていただろうなあ、と思う。
でもそれは果たせなかったし、自分の大事の方を取ったのだから、まあ良いのだ。
これから先まだまだ制作する機会はあるし、その時にはさらにパワーアップしたシナリオでもって撮影に励むであろう、と確信している。

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by kan328328
| 2016-06-11 14:23
| 思い出