男とは何ぞや?
2016年 09月 21日
釈迢空、つげ義春、小津安二郎、内田百閒、クンデラ、チェーホフ、ベケット、ベーコン、中原中也、ホドロフスキー。
やたらと考える機会が多くなった。
「男とは~」「女とは~」という語り口はむなしいけれど。
最近の息子を見ていると明らかに「ああ、男だな」と思う。
息子は保育園でも、言葉を覚えるのが早いほうだった。
大人をマネてペラペラとよくしゃべる。
わざと言葉を間違えて、シュールな響きを笑う。
さまざまな単語を組みあわては、その妙味にあそぶ。
「こいつもしや天才か?」
父親として期待したのも束の間、現在は、
「ウンコ、ちんちん」を絶賛連呼中である。
あきれるくらいのウンコ、ちんちんである。
その2つだけでまあ、朝から晩までゲラゲラとよく笑う。
時おりヒーローであった自分の立場を思い出し、
あわてて仮面ライダーに変身したりするのだが。
やはり「ウンコウンコ!」と叫びながら、敵と闘うのであった。
生後わずか3年でウンコふり回しながら世界と闘わなきゃいけないなんて。
男って何て因果な生き物なんだ…
私はかんがえた。
男にとって「ウンコ」とはなんだろう?
その単語を発するだけで、まわりを脱力させる。
まるで初めておぼえた魔法のようじゃないか。
「チクショー!」
「くっせんだよ!」
「メンドクセッ!」
「うるせー!」
最近の息子が得意とする、保育園仕込みのダーティーワードだ。
これらは人に使っても相手を突き放すだけで、何ら共感性を生まない。
たまったストレスを瞬間的に逃がす、自分のための魔法といえるだろう。
大人もよく使っている。
しかし「ウンコ」と聞くと、人は顔をしかめつつも笑う。
スラングであると同時に名詞でもあるため、
その響きにはどこか、自己完結した素直さがある。
聞いた方も「きたないなー」と思いつつ、
いつも目にしているブツなだけになじみ深い。
むしろ、そのあっけらかんとしたくだらなさに、肩の力も抜けるようだ。
男の子からすれば「こりゃいいや!」となるのもムリはない。
女の子も幼いころは一緒になって「ウンコ」を笑う。
が、だんだんきたない言葉をイヤがるようになる。
これはこれで、男子にはおもしろい。
その一言で、気になるあの子のダイレクトな反応が得られるのなら、
笑われようが、イヤな顔をされようが、この際どっちでもいい。
「マジメだよね」「いい人だよね」の評価は男子としての死を意味し、
ならばせめて道化か、嫌われ者でありたいと願う。
よく考えてみれば、
「ウンコ(shit)!」も、
「ちんちん(fuck)!」も、
叫んでみると、これはロックだろう。
男とは、かくも毒を吐き続けたい生き物なのか。
鋭い武器をふり回し、乾いた金属音をまき散らし、
生傷を見せびらかし、体に悪い物を摂取してはボロボロになり。
そこに女子の視線が関係していない事はないだろう。
男だったら一度はノイバウテンになりたいのだ。
「ルックスや運動神経といった正当アピールで自分に勝ち目はない」
早い段階でそう気づいて絶望したのち、何とか解決法はないかと知恵をしぼった。
世の中には健全な美男子ではなく、キモい男が好きな女子も一定数いると気づいた時は、そこに全集中力をそそいだ。
マッシュルームカットにして、花柄シャツにパンタロンをはき、白粉をぬり、まゆ毛をそり落とし、さまざまな物体をぶらさげ、涙ぐましい努力で変人アピールをした。
しかし、それもやがては他人を引かせる事だけが目的になり、じょじょにエスカレートする行為に友人たちも離れていくようだった。
できるならアブない存在でありたい。
当時、本当にそう望んでいたのだ。
よっぽど自分の非力さを隠したかったのだろう。
でも多分いつの時代にも、同じような願いを持つ男はいるはずだ。
私の学生時代、地元高崎は不良の全盛期であった。
「オレはスケーター、先輩はヤンキー、後輩はチーマー。
父ちゃんと母ちゃんは元ヤン。兄ちゃんは族で、姉ちゃんはレディース。
みんなで遊びに行く中央銀座には、ホンモノのおじさんたち。」
そんな世界であった。
「アイツ、〇〇さんにボコられて血まみれだってよ。」
「〇中の〇〇ちゃん、蛍光灯突っ込まれて、お腹蹴られて、それで…」
おだやかじゃない会話が日常的に行き交い、センパイ達はいつも睨みをきかせていた。
殺伐とした空気のなか、友達は足にぶつかった消火栓にまでメンチを切っていた。
その背景には、神戸児童殺傷事件とバタフライナイフの流行があった。
そんな戦国時代のただ中にあって、私はただのキモキャラに過ぎなかったのだが、なぜか不良たちとはウマが合い、よく遊んだ。
彼らの名前でスケーター雑誌にイラストを投稿して、掲載されたりした。
コンビニの前で、隣町の不良が友達を順々に殴りはじめた時も、なぜか自分にだけは火の粉が飛んでこなかった。
その頃自分は高校を中退しており、まっ赤なハート型のリュックに化粧という出で立ちであった。おそらく「この珍体は殴るに値しない」と判断されたのであろう。
とにかく、そんな男子たちが集まると、大体競い合うのが「アブなさ」であった。
どこまでの痛みと速度に耐えられるか?
どこまでキケンな場所に立てるか?
どこまで残酷な行為ができるか?
女親からしたら、たまったもんじゃないだろう。
でも事実、若い男子の集まる空間はこういった度胸だめしであふれているのだ。
それも、ちょっとしたはずみで命を落としたり、ツルリと非道に堕ちてしまう危険と隣りあわせである。そのギリギリのラインを見極められるかどうかはもう、本人のカンに頼るしかない。
しかし、大人になってまでこんな事を続けていると、果ては刑務所だ。
男も年齢とともに「とがりたい」という願望も消えていくのであろうが、もし、生涯現役を望むのであれば、別の目的にシフトチェンジする必要がある。それがたとえば仕事上の出世だったり、他の追随を許さぬ知性ということになる。
プリミティブな衝動も持ちつつ、クールに理論武装する事ができたなら。
それは男冥利につきるというものじゃないか。
70年代後半からニューヨークで、キンキンにとがった音楽を演奏し続けているギタリストだ。
ザクザクと空気を切り刻むようなギターには、むき出しのかっこよさがあった。耳をつんざく暴力的なノイズを、知的な間合いでギュイーン!キャッ!と操る。
なんだか表現者としての理想型を見た気がして、コウフン冷めやらぬ頭のまま帰宅した。
夕飯時のこと。
「ぼくもう、おにいさんだから飛べるもん」
突然、息子がナゾの前置きをして食卓の上にのぼると、そこからジャンプした。
まっすぐ伸ばしたままの両足でドムッ!と着地すると、いかにも誇らしげに隣の部屋に消えていった。
息子よ。
なに食わぬ風をよそおっている息子よ。
着地する時は、ひざを曲げてショックをやわらげなくちゃいけない。
骨折するぞ。
そうやって、たった一人で通過儀礼を設定しては、こまめに乗り越えているのか。
そんなに大変なのか。男になるってのは。
お前もいずれ、こぶし飛び交う嵐の中を歩いて行くというのか。
この父親のように、ジッと傍観者に徹してやり過ごすのも、1つの手なんだぞ。
しかし、それだって大きくなってみないと、何もわかりゃしない…
ああ、男とは一体何ぞや?
by kan328328
| 2016-09-21 01:33
| 思い出