Kの父親は、Kが産まれたのをキッカケに、
成長日記を書きはじめた。
毎日毎日、息子のようすを入念に観察しては、
コツコツと記録しつづけたという。
幼い子どもというのは、親の見ている前で、
色々な事をやらかしてくれる。
鼻に異物をつめて泣きわめいたり、
戦隊キャラになりきってみたり、
ナマイキな言葉をとくいげに使ったり、
親ならつい日記に書きたくなるようなネタを、
山のように提供してくれるものだ。
ある程度の年齢に育つまでは、
子どもを記録しつづける親も多いだろう。
しかしKの父親の場合、Kが成人してもなお、
成長日記を書き続けていたというから驚きである。
20歳をすぎた男の生活なんて、大抵は、
「帰宅。フロ。メシ。テレビ。寝た」
といった他愛のないルーティンになるものである。
ここまでくればもう成長とは言えないだろう。
しかしKの父は、すっかり大人になったKの姿にも、
何らかの変化を見いだして、日記に書き続けたという。
風変わりな形ではあるが、これは愛だろう。
一人の人間に毎日興味を持ちつづけること自体、
そうそうマネできるものじゃない。
このエピソードを聞いて以来、
俺はどうしてもその日記が読みたくなり、Kに、
「オヤジの日記、売ってくれない?」
と持ちかけたら、
「おまえ変態かよ」
「おまえ変態かよ」
と言って、取り合ってもらえなかった。
Nの父親は定年退職したあと、しばらくは、
家でしずかに隠居生活を送っていたらしい。
しかし、ある日どこかから、
ナゾの巨大モーターを買ってきたかと思うと、
居間でドドドドドと駆動させはじめたという。
それは、脱穀機のモーターであった。
脱穀機本体ではなく、あくまでモーターのみ。
その駆動音を楽しむためだけに、買ってきたのである。
聞いてみれば、Nの父が子どものころは、
村のいたるところで脱穀機が稼動しており、子どもらは皆、
そのモーター音を聴きながら育ったらしい。
「脱穀機のモーターに耳をかたむけていると、
いつでも幼少期の記憶がよみがえってくる」というのだ。
以来、N家の居間には一つ、また一つと、
あたらしい脱穀モーターが増えていき、
今では品評会に持ち寄るほどのコレクションになったらしい。
家族の共感もないまま、日夜モーターに耳を近づけては、
なつかしい故郷の記憶をたどるN父。
それを想像するたび、何ともいえぬ哀愁を感じてしまうのは、
俺だけだろうか?
Tの父親は退職後、自分の部屋から一歩も外に出なくなり、
毎日哲学書を読んでは、思索をめぐらしている。
重いうつ病を患っており、外出もままならない状態だ。
ある時、どうしても遠出しなくてはいけない用事ができて、
T父は家族と連れだって出かけたそうだ。
行きの車内では何とか心の平衡を保ちつづけたものの、
出先において、精神的疲労がピークに達し、
家族に支えられるようにして、家路についたという。
このエピソードを思い出すたび、何というか、
「T父は現役だなぁ」と感じるのだ。
たとえば、学生時代に抱えていた青臭い悩みを、
ほとんどの人は社会に出れば忘れていくものだ。
「抽象的な悩みは学生の特権」とでもいった感じで、
あとは割りきった人生を過ごすようになる。
でも世の中には、いくつになっても、
哲学に救いを求める人もいるのだ。
知識という言葉がそのまま世間知の事を指すような、
この日本においては、実用性のない哲学は嫌われる。
嫌われるか、バカにされるのがオチだ。
そんな社会にあって、70に近づいてもなお、
「この世界に素朴な疑問を持ち、真剣に考える大人」
もいるんだという事実は、俺からすれば何だか、
ものすごい救われた気持ちになる。
「いろんな人がいていいんだ!」という感じだ。
T父は、ときおり俺の家に、
段ボール一杯の哲学書を送ってきてくれる。
なので毎日少しずつ、T父の濃いプレゼントを読みといている。
その中で、色川の父親がなにを思ったのか、急に、
茶の間の畳をひっぺがし、床板をぶちぬいて、
スコップで穴をほり始めるというエピソードがある。
「ええいクソ!ええいクソ!」
と、細い腕をわななかせながら昼夜を問わず掘り続け、
客間や玄関下まで穴だらけにして、ついには家の下に、
巨大な地下通路をこしらえてしまったという実話である。
当時中学生で、穴掘りの手伝いをさせられた色川は、
防空壕でも何でもない穴をひたすら掘り進む父を見て、
「これが親父の居場所なのかな」
と、思ったという。
父親ってのは、ふしぎなものである。
たとえば母親という存在が、何歳になっても、
旅行に、グルメに、趣味のつどいに、コンサートにと、
外側に楽しさを見いだしていく事が多いのに対し、
父親というものはおよそ、独自の内的深化をとげるようだ。
そこには、家族の反発や社会との断絶すらかえりみぬ、
ある種の「執念」がある。
その出どころは、よくわからない。
そして、俺自身もなぜか、
その人のしている行為が社会的に無益であればあるほど、
真剣であればあるほど、胸を打たれてしまう所がある。
それはおそらく、お金や、名誉や、使用意図や、
そういった動機をすべてそぎ落としたあとの純粋な、
魂の運動のようなものを感じるからかもしれない。
お金も名誉も大好物な自分であるだけに、余計、
こういった存在にヒリヒリさせられてしまうのだ。
俺もがんばって、行為者であり続けようと思う。
このブログも最初はただの表現欲求から始めたはずなのに、
最近だと、見にきてくれる人の数(アクセス数)に、
ヤル気をブンブンと左右されてしまう自分がいる。
甘いな。
もっとK父の成長日記を見習って、せめて、
「週に1回か、2回はブログを書こう」
と心に決めたのでした。