作家にささげるラブソング

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上の画像は、親友で復顔師の戸坂明日香さんが、
己のノド笛から摘出してプレゼントしてくれた、
のどぼとけのオブジェ。

この数年来、
やたらとブッダのことばかり考えて、
その教えを作品にまで採用した自分にとっては、
この「ご縁」は何ともフシギなものです。

後生大事に飾りたいと思います。
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岡本太郎賞関連の展示はすべて終わり、
これからは僕も作家として一人、歩いていきます。


「今までずっと壁画作品を作り続けてきたのですか?」


と、よく聞かれますが、作っていません。
岡本太郎賞を受賞した「青空があるでしょう」がデビュー作で、
今回展示した「わたしの野花たち」が2作目です。
アートの公募展に応募するのも、これが初めてです。


「今まで何をしてきたのですか?」


これもよく聞かれますが、
自分でもよく思い出せません。
20代のころ、自分は何を考えて生きていたのか。


ひとつだけ覚えているのは、
22歳から27歳くらいの期間、
自分が監督・脚本・演出をした映画の記憶です。
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準備に何年もかけて、私費を250万円以上投入し、
友人たちと合宿して派手な美術セットをこしらえて、
何ヶ月にもおよぶロケハンで見つけた山奥にドドンと美術を設営、
プロの映画スタッフも大勢呼んで撮影まですべて終了したのに、

その後の人間関係でつまずき、
編集はすべて中断、
俺は精神的にひきこもり、


すべてポシャったこと。


あの当時、
俺はとにかく打たれ弱くて、
パキシルという精神薬を飲みながら、
いつも布団にもぐっては胃をおさえ、
メソメソ、ビクビクしていたものです。

おそらく、そのストレスで脳の海馬がちぢみ、
カリカリ梅のような顔面をさらして生きていました。


20代はひたすら暗黒だったのです・・・
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でも岡本太郎賞受賞を機に、
そ遠だったたくさんの友人、知人、親せきと、
ふたたび交流が生まれました。
宣伝用としてFacebookを始めたのも大きいですね。

このブログも僕の友人たちをはじめ、
母や親せき一同が見ていることを知りました。

ちょいちょい載せてる俺の女装写真とか、
ぜんぶ母に見られていたのかと思うとフクザツです。

でもしょうがないですね、オンラインですから。
ワールドワイドに恥をさらしていくしか、
生きる術がないようです。
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これからまたしばらくは制作に没頭するつもりなので、
自分のFacebookは留守になると思います。
でも友人たちの展示やイベントの告知には、
どんどん活用していくつもりです。

もちろん、このブログも書きつづけますよ。


そうそう、あと、
今年の岡本太郎賞授賞式で、ぼくは思いきって、
美術評論家の椹木野衣さんに話しかけましたよ。

なぜ話しかけたのかというと、
去年の自分の授賞式のあと、
友人たちに聞かれまくったからです。


「椹木さんと話した?」

「椹木さんはどういう評価だった?」

「なんで椹木さんに話しかけなかったの?」

「おれの作品、椹木リスペクトで作ってるんだぜ」

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こんなに多くの作家が気にかける評論家はいないってくらい、
俺の周囲は椹木フォロワーによって固められていたのでした。

そういえば学生時代、友達の家に行くと、
どのウチの本棚にも椹木さんが書いた、
「シミュレーショニズム」が置いてあったっけ。


というか、
僕も椹木さんの本を何冊も読んでおり、
影響も受けているわけです。
「反アート入門」なんて、
夜中に一人で号泣しながら読んだのを覚えています。
これを話したとき、作家の何人かには、


「三宅が椹木さんの本を読むとか、ウケる〜」


って笑われた事があるので、もう黙る事にしましたが。


椹木さんの本は、現代アートを実践する、
いわば「方法論的自覚」をもった作家が読むべきで、
お前のようなアウトサイダー・アーティストは、
読んでもしょうがないでしょ、という事らしいです。


いや、しかしね。
俺が作ってるのはアウトサイダー・アートじゃないし、
ちゃんと熟慮をかさねた上で制作してますから。
高校中退大検者をナメちゃいけませんよ。
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まあとにかく、
椹木さんが僕に話してくれた事を要約すると、


「去年の太郎賞のばあい、
私だけがあなたに票を入れたわけではないし、
あくまでコンペの基準に基づいて審査している。
しかし、あなたは文脈とか気にしていてはいけない。
私は評論家と作家というのはいつだって、
「勝った負けた」の世界だと思っているし、どこかで、
自分たちの立場が脅威にさらされるような作品を求めている。
私はあなたの作品をアウトサイダーアートだとは思っていない。
私も評論家である以上、自分の影響力を感じるのは光栄だが、
美術活動を続けていた作家のうち、結果的に残っているのが、
会田誠や村上隆だったというだけで、
意図的に導くようなことは一切していない。」


という事を、真顔で語ってくださいました。

話を聞いているあいだ、
ぼくはちょっと震えていました。
というか、その怖さにシビれたといいますか。


「こりゃ死ぬ気で制作しなきゃいけないわ」


と、襟を正す気持ちになったわけです。

この方は、切った張ったの非情な論壇世界で、
己の芸術概念を突き進めるロマンス故に、
とことん知性がとぎ澄まされていったのだな、と。


つまり、俺は感動したわけです。
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それに対して、
作家たちから聞こえてくるのはいつだって、

評論家の〇〇さんとはお近づきになったか?とか、

〇〇さんは作品をいくらで売ったとか、売らないとか、

〇〇先生とは懇意にしておいた方がいいとか、

〇〇はでかいイベント依頼されて得意になってるだとか、

そんな話ばかり。
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ああ。

作家は早々に魂など売っ払って、
あちらのセンセイ、こちらのセンセイ、
レセプションの顔出しにと右往左往しているぞ。
いろいろ思っていた事と逆だったし、
なんか美術評論家の方が、腹が据わってるぞ。

俺も含め、作家たちは作品制作もほどほどに、
自分の芸術信念を文字に変え、
ブログやTwitterやFacebookに書きこんで、
友人たちの賛同ばかり求めているぞ。

日々の生活で感じた矛盾、怒り、かなしさ、不安を、
芸術作品としては昇華せず、

いいね!

その通り!

共感した。

シェアさせていただきますね。

をもらうことで承認欲求を満たし、
さっさと深い眠りに落ちてしまうぞ。
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そして朝になれば、
信頼のおける作家、教授、評論家に相談だ。
そこで期待どおりのアドバイスをゲットすれば、
今度は、

「教育」のため、

「社会道徳」のため、

「キズナ復興」のため、

「正義」のため、

などといわゆる、

「誰にも否定できないリッパな信念」

をかかげて、正しさ!正しさ!と騒ぎだすぞ。
でもそのプラカードの裏には暗い文字で、

「シット」「プライド」「自己不信」

と、なぐり書きがしてあるぞ。
そうやって強固な信念に寄りかかりさえすれば、

「はたして自分の作品はこれでいいのだろうか?」

などと内省する必要もなくなって、ラクにはなるぞ。
自分の根っこの権威主義には気づかぬまま、
そのうち、

「〜が正しいはずです」

「〜であるべきです」

「〜せねばなりません」

などと、
責務感バリバリの語尾を乱用し始めるぞ。
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ああ。
作家をまどわす大義名分、おそろしや。

たしかに、

「感受性」とか、

「ポエジー」とか、

「美学」とか、

「センス」とか、

そういった移ろいやすい感覚だけを頼りに、
制作を続けていくのは心細い、というのもわかる。
そよ風には寄りかかれないのだから。
でもだからこそ、
作品自体がスックと自立すると思うわけです。僕は。
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昔、ある作家は俺の作品に対して、


「君の自意識過剰な作品にくらべて、
おれは社会に開かれた表現を目指したいから」


と息巻いたので、
どんな創作過程を経るのかと思いきや、
知人から友人からたくさん集めて作戦会議、


「この作品にはどういう演出が合うと思いますか?」

「このアイデアに修正点はありますか?」

「そもそも、ぼくは何を表現したらいいと思いますか?」


とアドバイスを乞う、乞う、ひたすら乞う。
知らんがな。


本人いわく、

「作品の風通しをよくしたいから」

「いろんな人の意見を取り入れたいから」

「時代性を反映させたいから」

「内に閉じた表現はしたくないから」


いやいや、アンパイ狙いの保身だろ。
評価におびえて責任分散したいんだろ。
そもそも内に閉じる感性すら持ってないだろ。


そうこうするうちに、
みんなの無責任なアドバイスばかりをツギハギした、
中身スカスカのパッチワーク作品の出来あがりだ。
責任者不在の作品から伝わってくるのは、
ただただ、ひたすら、


「これ作ったの、僕だけじゃないからね!」


のイイワケだ。
アホらしや。
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みんなでより集まって、
ガヤガヤと意見ぶつけあったその後は、
ガチャガチャとZIMAぶつけあって、
内輪ノリはなはだしく、
じつに民主的に作品完成、おつかれっす。

初めて観に来たお客さんに、
作品について問いかけられれば、
ヘラヘラとポーズを決めて、

「いや〜、コレはただの・・・」

「駄作ですけどね」

「半分ジョークですけどね」

「時間がなかったんで雑ですけどね」

「アイツが中心になって作ったんですけどね」

「みんなと相談してこうなったんですけどね」

「これホントはまだ発表したくなかったんですけどね」

と重ねる、重ねる、
逃げ口上の重層ミルフィーユや!
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あークソくらえ、責任放棄のクリエイター。
いったい、どこまで逃げつづけるのか?
ハリソン・フォードも真っ青だよ。
てか作家本人が「駄作」とか言っちゃう作品なんて、
死んでも見に行きたくないし。


その作品が良いのかどうか、
しっかり作家自身で判断・制作して、
展示にまでこぎつけたなら、


たとえどんなに酷評されようとも、

ボロックソに叩かれようとも、

友人たちに無視を決めこまれようとも、

展示が終わったアカツキには、
その憎まれっ子作品を胸に抱きしめて、


「私はこの作品を愛してる」


って言えるはずなのに。
だからこれ以上、
誰にも愛されないみなしご作品を産むな。

駄作と思うなら発表するな。

人を呼ぶな、バカ。

ぜんぶ集めてお寺で供養してもらえ。
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と、この何年かは腐った気持ちでいました。
でもそんなすさんだ心の中にも、
いくつかの明るい期待はあるのです。


一つめは、
2020年の東京オリンピック・パラリンピックにおける、
関口光太郎くんの彫刻展示。
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徹底して輝ける太陽を「演じぬく」という事が、
どんなに覚悟がいることか。そして、
どんなに周りの人間を勇気づけてくれるか。
それを全身で体現しつづけている関口くんはいま、
着々と巨大な爆弾を仕込んでいる模様です。

そのまま突き進め、どこまでも!関口くんよ!!


二つめは、
アート、写真、映像と表現媒体をまたぎつつ、
10年前から一貫して現代社会を見据え続けてきた、
澤田サンダーさんの監督した映画「ひかりのたび」が、
9月16日(土)から新宿K'sシネマにて上映されます。
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澤田さんは10年前、高円寺で貧乏生活をしていた頃から、
暗喩表現、逆説的手法、社会視点の大切さを説いていました。

これもかならず観に行こう。


ぼくにとって十数年来の、
本当に数少ない作家友達の中で、
現在進行形で腹をくくった制作をしている人たちです。
彼らに会うのなんて一年に一度あるかないかですが、
いつも心で意識している存在です。


あ、あと、
油絵画家の傍島義雄さん。

大学の先輩だったくらいでほとんど面識もなく、
当時は彼の絵にそこまで興味もなかったけど、
ある日を境に絵のタッチがガラリと変わり、
深くてしずかで瞑想的な油絵を描くようになりました。
今は作家活動をやめて宣教師になったみたいですが、
また展示とかしないのだろうか?


最近ことに彼の存在を意識しはじめ、
なんだかあの絵が観たくて、観たくて、
真夜中にぼんやりと思い出すのです。

by kan328328 | 2017-07-28 03:53 | アート | Comments(0)

美術作家・三宅感のブログです


by kan miyake
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