アハーンの詩
2017年 08月 03日
岡本太郎賞の恩恵も終わり、
ふたたびいつもの生活者に。
今後はどうしていこうか。
先行き不透明、
頭はマッコリのようにまっ白だ。
いっそ就活しようか。
就活を・・・
履歴書に、
「34歳、妻子あり。就職経験なし。
でかくてグロい壁画は何個でも作れますが、
仕事は何をやってもうまくできません。
たまに夜中に起きてポエム書いてます」
って書くのだろうか。
キッツいな・・・
今回展示をするにあたり、
企画、プレゼン、制作、告知、搬入、設営、搬出と、
一連の流れをすべて自分なりに試行錯誤できたのは、
すばらしい経験でした。
そして、かげで支えてくれた家族、友人、
ながらく連絡の途絶えていた旧友、
初見であたたかい言葉をくれた人たちとの出会い。
気持ちとしては、彼ら一人一人を呼んで、
銀座の叙々苑で焼肉をごちそうしたい。
七輪に上カルビをズラッと並べたい。
でも、それはできない。
今のわが家の経済状態は、
カルビはおろか、カルビーすら買い渋っている。
だからせめて、
感謝の気持ちだけでもサンチュにくるんで、
皆の心にとどけたい。
仕事から帰ってきた奥さんに、
「これからも一人で制作を続けていくことを思い、
ふと、不安になった」
と話したら、
「いつだって、一人で作り続けてきたじゃん。
もう少しがんばってみなよ。」
とのこと。
そうだった。
そういえば、この寄る辺ない感じは、
なんともなじみがある。
もうちょっと色々やってみよう、と思った。
無性に詩が読みたくなった。
最近は、西脇順三郎や吉岡実などの、
わりと凝った詩を読んでいたが、
古本の詩集をひっぱり出して、
ふたたび読みはじめた。
立原道造の詩は美しい。
中原中也の詩となるともう、
どこまで影響をうけたのか判然としないくらい、
全身にくまなくしみ込んでいる。
ヘルダーリンの詩もまた、美しい。
社会復帰が不可能なくらい、
天上世界に陶酔している。それがよい。
詩人ってのは、生まれてから死ぬまで、
ずーっと精神的知覚過敏なのだな。
自分も14歳頃からなにも変わらない。
内からわき出る詩を、
作品というカタチにして表現したい。
そんなときに手っ取り早いのは、
新緑の萌ゆる土手に立ち、ただ、叫ぶことだ。
「アハーン!!」と。
「アハーン!!」と。
「ウリャー!」とか、
「ギャー!」とか、
「ウガー!」とか、
そういう雄叫びとは、
ついぞ縁のない人生だった。
あくまで、
「アハーン!!」なのだ。
なんか終わってる感じがするが、
しょうがない。
キモいなあ俺と思うし、
もうちょいサマになる感嘆詞はないかと、
探したこともあった。
「あーい!」とか、
「おお・・・」とか、
「嗚呼」とか、
なるべく女性的にヨガらない言葉を。
でもどう取り繕ったところで、
何を当てはめてみたところで、
やっぱりシックリくるのは、
「アハーン!!」なのだ。
とても残念である。
許してほしい。
でも、
自作の詩と一度でも真剣に向き合った男なら、
この感じにはげしく共感してくれるであろう。
そう確信している。
詩人・萩原朔太郎は名著「詩の原理」のなかで、
その欲求のことを、
「詩人の詠嘆(えいたん)」
と表現している。
そうそう!
さすが、わかってらっしゃる。
土手に立って「アハーン!!」と詠嘆したい。
by kan328328
| 2017-08-03 00:25
| アート