マイノリティーであること vol.1

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ドナルド・トランプ氏が大統領に就任して1年が経ちました。

自分は根っからの政治オンチであるため、
ブログにそれを書こうとは思いもしませんでした。
が、2017年は政治が個人レベルの実感にまで下りてくるような、
何とも濃ゆい1年のように思われました。なので、
まずは自分なりに感じた事を筋立てるため、概要を記します。
要は覚え書きです。


トランプ氏を大統領にまでのし上げた支持者の多くが、
昔ながらの共和党支持基盤でもあるアメリカ南部や中西部、
アパラチア山脈周辺などに住む白人労働者たちであること。

今や衰退しつつある炭鉱労働や機械工といった第二次産業に従事し、
レッドネック、ヒルビリーなど様々な蔑称で呼ばれている人々です。

彼らは保守的なプロテスタントである福音派に属する割合が多く、
ストイックな聖書解釈に基づいた「中絶反対」「同性婚反対」
などを昔から主張しつづけています。

日本のテレビに映し出される一般的なアメリカ人像は、
ニューヨークやシカゴといった大都市で生活する都会人ばかりで、
田舎の白人労働者たちの姿を目にする機会はほとんどありません。

しかし僕自身、自分が好きだった映画や本を思い返してみれば、
彼らの姿が度々取り上げられていたのでした。

初めてその存在を意識させられたのは10年ほど前にツタヤで借りた、
「ジーザス・キャンプ」というドキュメンタリー映画です。

福音派宣教会が主催する子供向けサマーキャンプの実態を追った物で、
その中で、まだ小学生にも満たないような幼児を含む少年少女たちが、
女性伝道師が読み上げる聖書の教義に酔いしれて泣きわめき、
当時のアメリカ大統領であるジョージ・ブッシュの写真を崇めて、
爆音で流れるロックに合わせながら激しくダンスして、絶叫し、
果てはバタバタと倒れて痙攣する様子が映されていました。

そのあまりに熱狂的な姿に、
今まで抱いていたアメリカ人に対するイメージが、
ひっくり返されるほどの衝撃を受けたのを覚えています。

今思えばあの映画も、
ネガティブ・キャンペーンの一環として制作された、
民主党によるプロパガンダ映画だったのかもしれません。
それでも、昔からアメリカの白人労働者のイメージは、
ハリウッド映画やアメリカ文学の格好の題材として描かれ続け、
事実に基づいて忠実に再現されたものもあれば、
時にコミカルに、時にグロテスクにデフォルメされ続けてきました。

映画でいえば、

ダム建設予定地の山岳でカヌーをするため、
都会からやって来た4人の男が地元住民に襲われて、
性的辱めを受けるパニック映画、
「脱出」(1972)。

テキサスに帰省した4人の若者たちが、
地元の殺人鬼一家に襲われるホラー映画、
「悪魔のいけにえ」(1974)。

竜巻の被害により荒廃しきったオハイオ州の田舎町で、
暴力と快楽におぼれる少年少女の刹那的な青春時代を描いた、
「ガンモ」(1997)。

ミズーリ州南部の山脈地帯に住む少女が、
白人コミューンの因習に逆らって、
失踪した父親を探しに出かけるサスペンス映画、
「ウィンターズ・ボーン」(2010)。

文学に関していえば、

アメリカには「南部ゴシック」という小説ジャンルもあるくらい、
古典的な題材として描かれ続けてきた歴史があります。
フォークナーやスタインベックといったノーベル文学賞作家の他、
僕の大好きなフラナリー・オコナーといった小説家たちも、
一貫してアメリカの田舎に住む農民をモデルに小説を書き続けました。

こういった文学作品を読むにつけ、誰が言ったかは忘れましたが、

「真の芸術は常に社会的マイノリティーを見つめている」

という主張を思い出します。

まだオバマさんが大統領だった頃に、
都市部に住むリベラル層の総意で推し進められてきた政策が、
地方で敬虔な生活を送るクリスチャン労働者の目には果たして、
どのように映っていたのでしょうか。

国は自分たち白人労働者の訴えには聞く耳を持たずに、
人工中絶や同性愛を受け入れることによって聖書の教えを冒涜し、
グローバル化の名のもとで行われる自由貿易によって貧富の差は開き、
移民受け入れによる失職なども相まって、生活は追い詰められていく。

もし、そういった疎外感を感じている最中に、
被害者意識にじかに訴えかけるような情緒的演説でもって、
「減税!」「国境の壁!」「TPP離脱!」などと、
わかりやすいマニフェストを叫ぶトランプ氏が出現したとすれば、
長らく待ちわびていた救世主のように感じたかもしれません。
たとえその実態が、
白人労働者層と何ら関わりのない不動産実業家という出自であり、
日頃からツイッターで反対者に口汚く罵るような人間だったとしても。

一方、過去にファシズムの恐怖を経験したはずのヨーロッパを、
ここ数年さまざまなポピュリズム政党が席巻しているという事実は、
民衆の不満の高まりが世界的兆候であるかのように思います。
男女平等や個人の自由といったリベラルな要素も含めつつ、
移民に対しては排外主義的であり、反EU的であり、離脱も匂わす。
既成政党には無かった、民意優先の政策が支持されているそうです。

ただ、国民が常に正しい選択をするという前提には疑問を覚えます。
そんなこと言ったら民主主義自体成立しないのかもしれませんが。
過度に「エリート」と「民衆」を二極化することで対立を煽り、
分断させるという手段には、何か怖いものを感じます。

2016年にアメリカで発売されるやいなや100万部を突破した、
J.D.ヴァンスが記した「ヒルビリー・エレジー」という本があります。
日本でも2017年に出版されました。

その本を読んで強く感じたのは、白人低所得者層の多くが、
「主体性を放棄」した生活に堕しているということ。
それは、同じく社会的マイノリティーでもあり、僕自身も所属する、
障害者の介護現場においてもまったく同じ要素を感じるのです。

次回はその本と、僕が自分の現場で感じた事などを織り交ぜながら、
果ては過去の自分に対して批判的に言及する内容になると思います。
とりあえず今日は疲れたのでおわり。

by kan328328 | 2018-01-26 21:01 | 日常

美術作家・三宅感のブログです


by kan miyake
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