きれいな学生さん
2018年 07月 09日
作品設営中や、トークの後に話しかけて頂いたり、
学食をご一緒したり、学内を歩きながら話したり。
アンケート用紙の中で切々と悩まれていたり。
卒業後、作家としてやっていく事への不安。
幼少期から抱えている生きづらさについて。
うつ病、離人症、そしてまた、
「じつは統合失調症です」という話を、
学内、学外それぞれ2人の方に打ち明けられる。
コレに関しては、ふしぎな縁というか。
普段、人にはいえぬ内面を語らせる力が、
もし自分の作品に宿っているんだとすれば、
これはもう作家冥利に尽きるな、と。
そう思うわけです。
カウンセラーじゃなし、専門知識もないので、
「それは辛いですね」しか返せんけども。
ちっちゃい頃から、
自分に語りかけてくる声が聴こえ、
実体としてもたびたび目の前に現れたと。
しかし親や友だちには理解してもらえず、
「無理解に苦しみ続けた人生でした」
と語るその言葉には、
妙なリアリティがあり、何だか、
身につまされる思いがしたわけです。
実際、何が正常だかわからん時代ですし。
教訓垂れ、他責根性、小児性愛の開きなおり。
2020年を前に不倫ピックの性典よろしく花開き、
因果カンケイ省みずに「虚しい、虚しい」と、
自分で投げたブーメラン呪ってるような奴が、
堂々と健常者ヅラして笑ってますよ。
学生さんたち、きれいでした。
スッと一本線引いたみたく、みんな垂直に悩んでいて。
できればもっと、
一人一人と会話したかったけども、
会期中はいかんせん余裕がなく、スンマセン。
俺は猫カフェに迷い込んだハトみたく、
緊張のあまり首を高速で動かしていましたし。
開催前日になってようやく、
「せっかくの初個展だし、
気軽に話せる作家キャラで行くんべ」
と思い立ち、
どんどん話しかけてねーなどとツイート連投しては、
着なれぬピンクやターコイズのTシャツを着用、
キャンパス内を散々うろつき回って、
三十路のパステルカラーまき散らしてきたけども。
ふと、この明るいシャツに疑問を抱いて、
奥さんに正直な感想を聞いたところ、
「不気味さ際立ってるね」
と言われ、シャツを床に叩きつけた次第だから、
慣れない事はやらなくていいんだな。
そう。それで、
学生さんとコミュニケーションを取る中で、
度々キーワードとして上がった、
「不安」「孤独」「生きづらさ」について、
自分なりに考えた事などを書きたいなと、
そう思うわけです。
卒業してからというもの、
抜け道の見えない不安のようなものが、
10年以上続きました。
だれにも声の届かぬ海底深くで、
もがき続けているような不毛感覚。
こういう時期ってフシギと無音ですね。
なんの音の記憶も残ってない。
しずかな地平に立って、
ポタポタ涙たらしてるようなアンバイで。
何が悲しくて、こんなにもうつむいて、
顔が地面スレスレに近いもんだから、
ダイソンの掃除機みたいな姿勢で歩いてたし、
20代はとっても恥ずかしかったー。
いろんなバイトを経験したけど、
何やっても上手くいかず笑われ。疎んじられ。
バイト派遣先500m手前の公園、
木製ベンチに横たわりキリキリ痛む腹を抱え、
「行きたくねえよ・・・」
と、泣いていたら、
隣ベンチのホームレスが親しげに、
「(片手を上げて)おう!」
とか言ってフレンドシップ、ぶん投げてきてね。
あの頃、どんづまりのどんづまり。
100%理不尽な土下座もさせられて。
濡れ衣、時間外労働、罵詈雑言。
他人を土下座させ、平伏させて、
地べたにツバ吐いて、足ひっぱって、
どんだけ底辺リスペクトだよってくらい、
重力に素直な人たちにも出会いました。
平成を30年過ぎたと言っても、
魑魅魍魎消えるじゃなしニッポン。
ヒタヒタと足先から浸ってくるよな、
深夜の孤独感も、
前頭葉がボワボワするよな非現実感も、
コンビニの白々しいLED看板も、
赤ちょうちんから漂ってくる、
焼いた肴とヤニと吐息まじりの熱気も、
「カッ!カッ!」と突発的に砲弾される、
ガードレールに並んだホストたちの笑いも、
それらが総出で寂しさをあおる要素に変幻して、
一人ぼっちはヨロヨロと締め出されるんです。
それを毎日、毎日受け入れて、
「がんばれ」と。
「がんばれ自分」と。
どんなに突っぱってみても自分など、
たかがサクサクのモロい神経集合体なのに、
今もこうして生きているフシギ。
「あれはあれで尊い時間であった」
と、思い返す事ができるなんてのは、
当時知る由もなく。
今はただ「あー不安になってるな」と、
観察するだけです。
過去⇆未来という妄想のヨコ軸を断ち、
「いまこの瞬間」に気づくだけで、
だいぶラクになりましたし、むしろ、
20代で感じたあの寄る辺なさギリギリを、
今は制作の心の礎にしていたりするわけで。
何というか、
「たいせつな孤独であった」
そういうことです。
孤独、大事なのは孤独でした。
その一点において理解し合えた友人すら、
一人に耐えきれず集団に属したとたん、
ドグマを叫んで揚々と行進したりするもんです。
そんなときは心で、
「良かったねえアンタ、帰る家が見つかって」
って憐れみをかけてあげたらいい。
映画「津軽じょんがら節」のセリフのように。
外的要因で着飾りたくて、
自信のなさを正当化して欲しくて、
主体性など犬にでも喰わせちまいたくて、
非力な自分に気づきたくなくて、
自由からの逃走を企てるんですかね。
ブランド志向になるんですかね。
烏合の衆になるんですかね。
心の感度がダンゼン上がってくるし、
その時期に見たくなる作品ってのは、
関根正二の絵画だったり、
サティや森田童子の音楽だったり、
エリセやツァイミンリャンの映画だったり、
西行や山頭火、中也の詩だったりするわけです。
そうやっていつでも帰れる静寂さえあれば、
今まで自分を苛立たせてきた喧騒もすべて、
いじらしい人間活動に思えてきて、フシギ。
これからの作家人生において、
そういう自分だけの「静かなる一頁」を、
生み出せたらいいなと。
そう思います。
幸い、表現手段は色々と大学で学べたので。
たくさん作品つくろう。