「あけましておめでとうございます」
と書くつもりが、3ヶ月も経ってしまった。
今年に入り、しずかな日々を送っている。
これといって強く求めるものもなく、
目に付くのは不要な物ばかりだ。
長年書きためたアイデア、メモノートの類、
本やCD、映画のDVDを山のように捨てた。
いらないのだった。色々と。
他にも、思い出や経験といった、
人生の豊かな蓄積さえも、今はいらない。
さらさらと摩擦のない心持ちだけがあり、
道に咲く野花を、日ざしを、通行人を、
やんわりと眺めている。そして、忘れる。
ながめては忘れ、ながめては忘れ、
こうやって少しずつ、
大事な物も手放していって、
最後は一人、大の字で寝そべっていたい。
小さな頃から自分は、
ただそれだけの事を望んでいたんじゃないか。
意志やら目的やら、すべてしぼり切った後の、
漂白された昼寝を。
思い返せば、
青春時代の渇望は、何だったのか。
認められたい、特別でありたい、愛されたい、
という、あの過剰な身悶えは何だったのか。
バカなのか。
もしや救いようのないほど、バカなのか。
3月の初め、
kahierというバンドの領家弘人君に誘われ、
千駄ヶ谷まで能の舞台を観に行ってきた。
「桜川」という演目自体とても感傷的で、
人間の執着心を美化しており、何というか、
ミニマルを装った演歌にしか見えず、困った。
内容云々というより、
形式や間を味わう芸能なのかな。
わからない。
能が終わって、領家君と居酒屋に入り、
俺は彼にBen Frostという作曲家の、
「The Centre Cannot Hold」
というアルバムをプレゼントした。
彼は俺に洲之内徹の本をくれた。
「いくつになっても、
プレゼント交換は嬉しいもんだ」
と、よろこんだのも束の間、
酒が進むに連れ、罵りあいのケンカになった。
芸術表現について、お互い譲る気がない。
終いには口も聞きたくなくなったが、
ダンマリを決めた所でラチがあかない。
連れ立って高円寺の富士そばに入ると、
キツネうどんだか蕎麦だかすすって店を出た。
終電はとうになくなっており、
ひたすら無人の商店街を歩き続けるしかなく、
いつのまにか二人で肩を組みながら、
遠藤ミチロウの「カノン」を合唱していた。
そして始発を待つため、
領家君のアパートへなだれ込んだのであった。
裸電球にボンヤリ照らされた彼の部屋には、
世界中の文学集とCDがズラリと並んでいて、
せまい室内をほぼ占領していた。
その総量に俺が圧倒されていると、
隣室から奥さんが顔をのぞかせて、
「弘人は絶対に物を捨てないんだ」
と、笑った。
無慈悲に物を捨ててばかりの俺は、
ただ「そうかあ」と感心するばかりだった。
kahierはいま、
新しいアルバムを制作中だという。
「完成したアルバムを引っさげて、
今よりももっと精力的に活動するんだよ」
と話す領家君は、とても嬉しそうだった。
俺は静まりかえった部屋を見渡しながら、
一人黙々とギターを弾く領家君を想像して、
孤独だな、と思った。
そして、
大事な友達だ、と思った。