今年度から、
多摩美術大学で非常勤講師として働きます。
どうぞよろしくお願いします。
昨日は彫刻科の入学式だった。
キラキラの新入生たちが見守る中、
まさか自分にも祝辞の番が周ってくるとは、
思いもせず「それでは三宅先生、どうぞ」
と呼ばれて、俺はギクリと立ち上がった。
頭がまっ白なまま二言、三言話すうち、
「昔・・・女装して町をフラつきました」
と、
謎のカミングアウトが口をついて出てきて、
その後はもう、モヤがかかって憶えていない。
夢だったのかな?
入学式が終わり、俺はさっそく、
最近できた多摩美の巨大図書館へ向かった。
図書カードを作るためだ。
重くモダンなガラス扉を開くと、
広大な室内に無数の美術書、文学書、学術書、
映画のDVDがズラーっと陳列されていて、
俺はクラクラとめまいがした。
ああ。
これはまさに、
長年憧れてきた知の殿堂じゃないか。
これから職場で思う存分思索できるなんて。
本当だろうか・・・
本当に、
職場で小難しいことを考えて良いのか。
カッコいい横文字とかも使って良いのか。
「タナトス」とか、言っちゃって良いのか。
「棚おろし」の間違いじゃないのか。
今まで自分がしてきた仕事は、
ファミレス、造形屋、パチンコ屋、時計屋、
学習教材出版社、レンタルDVDショップ、
照明技師、重度訪問介護、ラジオ局受付、
映画館の映写技師、インド料理屋etc
といったバイト群であった。
その多くは基本、業務の回転率が命なので、
店員たちの動きを止めてしまうような、
ややこしい会話はご法度だった。
(あたり前だけど)
とにかく必要とされたのは、
瞬発スマイル、かけ足、即決力、
売上目標をかかげる時の大きな声だ。
「今日は20人契約めざしてガンバリャっす!」
「よろっしゃーす!」
そして、
職場の円滑なコミュニケーションのため、
体得せざるを得なかった芸人風リアクション。
「〜からのぉ?」
「イヤちょ、カンベンしてくださいよも〜」
「ハイそこで?・・・って、やらんのかい!」
仕事が終わったなら同僚と赤提灯にて、
ちょっとばかりの諧謔をツマミに、
ナミダ酒を酌み交わしたりもした。
「すみません、こんな不出来な後輩で・・・」
「おっとと、いけるクチだね夢追い人くん」
今思えば、こういったやり取りにこそ、
人間を知るための貴重なヒントが溢れていたし、
現在の自分の価値観を築いているのは確かだ。
ただ、こういったジミな経験則だけで、
あのハイソな大学をやっていけるのかしら。
今、何となく気がかりなのが、
現在3つの介護事業所をかけ持ちしながら、
酷使している「腰」のこと。
利用者さんを抱きかかえる際の、
腰の強さ、腰のやわらかさ、腰の耐久性、
腰の回復力、腰のふんばり、腰、腰、腰・・・
介護業界では腰こそがカナメとなる。
なのに、万年ギックリ持ちである俺は、
ムリな姿勢で利用者さんを抱え上げる日々の中、
ゴリゴリと少しずつ腰骨をすり減らし、
休日は布団でうめくだけで時が過ぎていく。
ウアーーーーーッ!と。
絶叫のただ中、頭にあるのはただ一つ、
アトリエに残してきた途中作品のことだ。
「・・・早く行って、修正したい」
制作途中の作品はまるで誘拐犯のごとく、
作家の生活すべてを人質に取ってしまう。
未だ手に負えない作品の事を思うと、
皿を洗う手も、服を干す手も止まる。
あー
あの作品、全然良くならないな・・・
てか、前の作品と変わらなくね?
もう少し手を加えようか・・・
いや、いっそ破棄してしまおうか・・・
考えていると神経はヒリヒリしてきて、
同じ部屋にいる家族にまでそれが伝染し、
子供はフキゲンになってオモチャに当たる。
それを見ると俺もまた、
「イヤ暴れたいのは俺の方だモン!」
と、幼児退行する始末。
大丈夫か、俺よ。
いっそおしゃぶりでも吸おうか・・・
こんな状況じゃ、もし仮に、
「パパは、なんで家庭をざわつかせるん?」
と涙目で聞かれたところで、
「現代アートにざわつきはデフォルトなのさ」
なんて5歳児に答えられるはずもなく。
ただ「ゴメンよ」と頭をさするしかない。
だから認めよう、今は少し疲労気味だと。
疲労ってのは厄介で、たまればたまるほど、
人を「枯淡モード」に突入させる。
「コタンモード」とは、簡単にいえば、
だんだんと心が枯れてくることを指す。
欲しい物がなくなる。
言いたい事もなくなる。
日中眠くてたまらなくなる。
幼児のたわむれを見てホロリとくる。
鉢花より道に咲く野花に心惹かれる。
友情や愛情に、過度に期待しなくなる。
荒川の土手でおーいと誰かを呼びたくなる。
欲望によって回る現代社会から降りたくなる。
赤サビだらけの平屋から目が離せなくなる。
「旅に病んで 夢は枯野をかけ廻る」
という芭蕉の辞世句が、やたら身に沁みる。
こういう、大正期における文豪のような、
私小説的メンタルに変化することを、
俺は勝手に「枯淡モード」と呼んでいる。
でも、
この変化がダメな事なのか、よくわからない。
バイオリズムが鬱々と下がっていく時期は、
むしろ日本的侘び寂びを理解する上で大事かも、
なんて思ったりもして。
そうなるともう、
この変化に抗うべきか、受け入れるべきか、
ますますわからなくなってくる。
だから、何が言いたいのかというと、
つまり自分は、
国宝級にめんどくさい男なのであった。
そして、誰に頼まれたわけでもないのに、
こうしてイラスト付きで身辺雑記をつづるほど、
図太い表現欲求は持ち合わせているわけで。
まだまだ自分はスタミナ太郎なんだと思う。
今、ようやくそれに気づいたので、
これからもがんばって行きますね。
おしまい。