感の感による感のための考察

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「狂おしさのあまり枯野をさまよう三宅感」


もう先月の話になるけど、
再び彫刻科3年生の講評があった。

人前に作品をさらすという行為は、しんどい。
特に思い入れの強い作品ほど、発表時にはまるで、
公衆の場で全裸になるような羞恥心をともなう。

なので、それをクラスメイトで見せ合うとなれば、
当然メンタルも傷だらけになるわけで。

学生さんはホントに大変だなあ、と思う。

講評後にくやし涙を流す子もいたりして、
そういう鮮度の高い感性が、俺には眩しかった。
ずいぶん長いこと忘れていた感覚のようで。

かつて、
シルクのように細く張りつめていた俺の感受性は、
汗努力忍耐といったウェッティな環境の中で膨張し、
今じゃ武蔵野うどんのように図太くなってしまった。

おそらくあと5年もしないうちに、
人前でガハハハと笑うようになるのだろう。
心の変化(鈍化?)って、ふしぎだ。

毎年2万人以上が自殺しているこの日本で、俺は、
こんな低所得な生活にあっても不安はなく、
子供を育て、金にならないアートに夢中になり、
胸にはいつもミントの風が吹いている。

なんくるないさー、フ〜といった感じ。

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「土手に寝そべる三宅感」


こんな心境になったのも多分、20代の頃、
藁にもすがる思いで読んだ本のおかげだ。

コリンウィルソン、池田晶子、色川武大、太宰、
安吾、山頭火、原始仏教、大拙、ドストエフスキー、
井筒俊彦、アドラー、ハイデガー、ニーチェ、
ショーペンハウアー、クリシュナムルティ・・・etc。

これら精神のアウトサイダーたちが遺した書物に、
鉛筆でグリグリとページが破れるほどに線引きし、
重要と思われる箇所は大学ノートに書き写し、
「これがこうなる事で悩みが生まれる」などと、
マインド一覧表を作成しては、毎日確認していた。

「大丈夫、俺はまだ、大丈夫・・・」

と、震える指でページをめくりながら。
そうやって頭の暗雲を掻きわける作業をしていたら、
ふと、

「これ全部、自分で作り上げてる苦しみじゃん!」

と、壮大な当たり前に気がついた。
すると、あたたかい陽射しがパーッと差してきて、
重苦しくしかめ面した人生観が瞬時にして軽くなり、
フワワ〜と空の彼方に飛んで行ってしまったのだ。

そのとき俺は心から、

「ありがとー」

と手を振ることができた。

こうしてわが身をもって理解した真理、というか、
自然の理のようなものを要約するなら、

「人は今ある幸せに気づいた方がいいよ」

って事かもしれない。

いや、これだと普通すぎる、というか、
ラーメン屋のトイレに書かれた一筆書きっぽいので、
もう少し具体的にいうと、

「不幸な私というイメージに執着し過ぎると、
周りの善意や大切な事柄が色々と見えなくなるし、
その前に体壊して死ぬよ、マジで」

って事だ。

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「心の余裕をポーズでかます三宅感」


自分は仕事上(あくまでヘルパーとして)、
福祉施設や障害者運動と関わる事が多いのだけど、
そういう現場でよく聞こえてくるのは、

「私は過去こんなに傷ついてきた」

「あの人のせいで自分の人生は台無しになった」

「あんな事がなければ、きっと今の私は・・・」

「なんであの時あれをしてくれなかったんだ」

といった恨み節の数々。
今の自分にやる気がなく、行動に移せないのは、

親のせい、境遇のせい、学校のせい、制度のせい、
夫のせい、教育のせい、上司のせい、職場のせい、
障害のせい、時代のせい、年齢のせい、外見のせい、

という事らしい。
こうした嘆きを延々と語る人というのは、
傾聴してくれている相手の事は、一切省みない。
相手が聞いていようといまいと関係なく、
まるで独り相撲を取るように、他人の影を借りて、
自分自身を説き伏せようとしているのだ。

でも、これらネガティブな感情を吐露することで、
得られるカタルシスは一時的でしかないので、
時間が経つとまた不安が募ってくる。そして、

自分の不遇を外部の責任にすればするほど、
過去の記憶をひっぱり出して言語化すればするほど、

「私の幸・不幸は外部条件に強く依存しており、
自分にはそれを打開する力がない!」

という、
誤った認識を思考回路に刻み続けているのだ。
その結果、いっそう深刻な無力感に襲われる。

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「フードコートで休む大三宅感と小三宅感」


口では「自立」や「自由」を謳いながら、一方で、
自らの言動によって主体性を損なうというのは、
なんとも皮肉な話だ。
だから、今すぐ他責をやめればいい話なのだけど、
人は、ダメな自分を正当化してくれる「〜のせい」
という免罪符を、なかなか捨てられない。

「かわいそうな私」というイメージには、
自己陶酔へといざなう甘美な中毒性もあるのだ。

これがたとえばアーティストとかの場合、
悲劇の自己像に酔いしれつつ、痛みの記憶を、
制作のモチベーションに転用できたりもする。でも、
それは少なからず、将来こうむるであろう苦しみを、
先へ先へシワ寄せさせているだけとも言える。

被害者意識を何年も頭でリピートしていれば、
免疫力も下がり、やがては体に不調をきたし始める。

経験したことのない突発性の病気に始まり、肌荒れ、
夜尿症、うつ、喘息、アトピー、紫外線アレルギー、
肩コリ、ギックリ腰、胃痛、頭痛、主婦湿疹・・・

これら心因性の病気に発展することも、
決してオカルトではなく、いたって自然な流れだ。
実際自分にも、20代の精神暗黒期にかけて、
上記の症状が怒涛のごとく押し寄せてきた事があった。

ではどうやってこの病状を克服したかというと、
ただひたすら「今この瞬間」に気づき続ける、
ただそれだけで良かったのだ。

やたらと長いメンタルレポートになってしまった。
この後さらに倍近く文章が続くのだけど、
この辺でやめよう。

そのうち気が向いたら、
痛み主体だった俺のネガティヴな精神状態が、
どうやって今のメレンゲみたいな心に変化したかを、
順を追って解説していけたらいいな、と思いました。

しかし、
いつも似たような自分の内面事情ばかり書いて、
俺はなんて、なんて自分大好き野郎なんだ!!

by kan328328 | 2019-11-05 15:49 | 日常

美術作家・三宅感のブログです


by kan miyake
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