捨てっぱち天使
2019年 11月 08日
「本一冊一冊に別れを告げる三宅感」
今月末、
別のマンションに引っ越すことになり、
家の荷物を整理している。
奥さんはほとんど物を持っておらず、
家にあるのはほぼ俺の私物である。
何年もかけて増殖していった大量のCD、
レコード、映画のDVD、そして本、本、本…。
どれも選りすぐりの名作群ではあるけれど、
「えいや!」とばかりにそのほとんどを、
近所の古書店やCDショップに買い取ってもらった。
その総額は20万近くにもなり、さっそく、
長年使ってたプラ製のキモい台所用品、キモPC、
キモくひしゃげた棚やキモいソファーを捨て、
少々高いけど耐久性のある調度品にチェンジ。
物を減らしていきつつ、
生活全般のクオリティは上げていく作戦だ。
ついでに昔描いた作品や文章や写真も捨てて、
高価な録音機材やカメラなどは友人にあげた。
段ボール何十箱にも及ぶ大量処分となったので、
初めは「喪失感のあまり死にたくなるかも…」
と心配したがそんなこともなく、むしろ、
物がなくスッキリとした空間に、
どこまでもクリアーな心だけが残った。
景色を眺めていても、人と話していても、
色や音の輪郭がクッキリ見えるほど、頭は明晰。
ここ5ヶ月ほど患っていた原因不明の首コリも、
徐々にではあるけど和らいできた感じだし。
いろんな意味で重荷だったのかもな、と思った。
ここまで踏ん切りがついたのも、今年に入って、
学生さんのみずみずしい感性に刺激された事や、
唐突な身内の不幸を経験した事が大きい。
「もし自分が死んだらこの持ち物は手元を離れ、
人の手に渡ったり、捨てられたりするんだな。
それなら「俺の物、俺の物」と囲い込むより、
若い世代と共有した方がよっぽど幸せだな。
そもそも、この痩せっぽちな体も含めて、
本当に自分の物といえる物は何一つないんだ」
そんな感慨が身に沁みた一年でもあった。
今はなんだか「所有」という概念そのものが、
一番の大荷物に思えてならない。
物を捨てるとき、一瞬ウッ!となる、
あの分離不安のような痛みさえ乗り越えれば、
その後は何を捨てたか一々思い出したりはしない。
だから、ゆっくりとゴミ袋に物を入れてみて、
改めて脳内でウッ!の感覚を再現・検証してみた。
すると、
捨てる瞬間明らかに、幼少時の俺が顔を出し、
必死に抵抗している事がわかった。
「捨てるのか…ボクの宝を、捨てるのか!!」
小脇に抱えた抜き身で、
今にも突進して来そうなほどの殺気だ。
俺がなだめるように、
「どうして捨てちゃダメなの?」と問いかけると、
幼児の俺は怒り気味に答える。
幼「ボク今まで高尚な本や音楽や映画をいっぱい、
たしなんで来たんだぞ。ここにあるのは、
その証拠なんだぞ」
俺「すごいねえ、いっぱい集めたんだねえ。
でも、見終わったなら売ればいいじゃない。
いつまでも持っている必要ある?」
幼「誰かが家に遊びに来た時、自慢できるもん」
俺「そっか。でも、誰も遊びに来た事ないよね」
幼「う・・・」
俺「君は美術作家を志しているんだっけ?」
幼「そうだい。だからここの本やDVDは全部、
自分が制作する時の参考資料でもあるんだい」
俺「そんなの図書館で借りたら?」
幼「う・・・」
俺「それにここにあるのは全て他人の作品で、
君の作ったものは一つもないんだよ?」
幼「わかってら!そんなこと」
俺「こんなに表現の最高峰に包囲された部屋で、
自分の作品に全力を注ぐ事なんて出来るの?」
幼「そ…それは、でも、もう集めちゃったし」
俺「そんなに怖い?捨てるのが」
幼「・・・うん、怖い」
俺「君が捨てることに臆病なのは、無意識で、
自分が捨てられるんじゃないかっていう不安が…」
幼「フギャーン!!(号泣)」
などと、メンドくさい独り問答でもって、
ジリジリと己を問い詰めて行かないかぎり、
俺は本一冊、手放せやしない。
そんな父の茶番には目もくれず、
うちの息子は実にいさぎよくポンポンと、
ヒーローや怪獣人形を捨ててしまうのであった。
by kan328328
| 2019-11-08 21:27
| 日常