独白ぜねれーしょん
2019年 11月 19日
先週、とある人との会話で、
「若者に感じるジェネレーションギャップについて」
いろいろと話を聞き、改めて世代とは何なのか、
考えるきっかけになった。
ジェネレーションギャップ・・・
俺もそのうち悩む事になるのだろうか。
その人は「君ももう少し歳を取ったら感じるよ」
と言っていたけど、どうなんだろう。
自分は幼ないころから、
色々と禁止事項の多い家庭で育ったため、そもそも、
同じジェネレーションと共感し合えた事がない。
思い返してみると、
俺が青春時代を過ごした90年代というのは、
今とは比べ物にならぬ程TVやゲームの全盛期だった。
学校へ行って、友達同士「おはよう」を言う前から、
「何面クリアした?」とゲームの進行報告が始まり、
昨夜観たモジモジくんだの、オジンガーZだの、
みんながみんな同じ番組を観て、同じゲームをやり、
同じ感想を熱く語り合う。入学してから卒業まで、
ずーーーーーーーーーーっとそんな調子であった。
でも俺の家では徹底して、
ダウンタウン、とんねるず、志村けんの視聴厳禁。
スーパーファミコンなどすべてのゲーム機厳禁。
カップ麺、コカコーラ、マクドナルド厳禁。
という教育方針だったため、子供の俺には、
同級生が好きな物の9割くらいは理解できず、
会話の中にもまったく入って行けなかった。
休み時間に友達が「メラ!」や「ホイミ」などと、
ゲームの呪文を唱えてきても、俺は「そうか」
としか返せなかったし、
「ダイジョブだあ」と志村のマネをする友達には、
「大丈夫なら良かった」と返答した。
友達んちに遊びに行ったら行ったで、今度は皆、
ヒゲのおじさんをジャンプさせて喜んでいるし。
そこで交わされる会話に耳をそば立ててみても、
「クッパの…キノコが…ピーチに…チョコボした」
という、食べ物だか下ネタだかわからない、
謎の暗号しか聞こえてこなくて、俺の頭には絶えず、
「???」が浮かんでいた。
そうやって、
少しずつ俺の中に堆積していった疎外感は、
いつしか優越感へと転じ、中学に入った頃には、
「若者が集まると大体ろくでもないな」
という、さみしい確信を持つに至った。
そんな独断から高校も半年で中退し、それ以来、
自分の価値観だけを信じてやってきたつもりだ。
なので、
「ウチらの時代は最高だった!」的な、
ジェネレーションの自尊心なんて、ない。
「あの頃は良かった」なんて郷愁も、一切ない。
いつだって今が最高だし、過去はどーでもいいや。
人との距離感もずっと一定のままだし、
話す相手の年齢も、国籍も、性別も気にしない。
気にするのは、それが個人の意見なのか、
集団の意見なのか、ってことだけ。
相手があくまで個人の意見として語ることなら、
どんなに不道徳で退廃的な持論が展開されても、
そこにやむにやまれぬ切実なリアリティを感じるし、
できる限り共感し、俺も本音で話したいと思う。
逆に、どんなに真っ当で正義感あふれる意見でも、
相手が何らかの総意を担って話している様子なら、
俺は笑顔を崩さぬまま、ジリジリと後ずさりして、
西武線の終電にスルリと乗りこむだけだ。
「すみません、なんか黙って聞いていたけど、
まるで共同声明文を読み上げてるみたいですね。
おつかれっす!」
と捨てゼリフを吐いて。
「国のため」「日本美術のため」「社会のため」
とやたらでかい看板を背負って他を糾弾する人の、
フレーム思考の気安さからつい好戦的になる感じ、
FacebookとかTwitterでたまに出没する、
あのマウンティーングな感じ、鼻息荒い感じ。
一体、何なんだろう。
皆、何にそこまで脅えているのだろう。
何がそこまで自己不信を駆り立てるのだろう。
有識者の批評、集団の総意、歴史的正統性を、
自分の意見の後ろ盾なんかにせず、
一人で叫んだらいいのに。素っ裸で。
「若者にジェネレーションギャップを感じる」
という話に戻るけども、それだって、
自分が寄って立つ世代観があればこそ、
ニュージェネの勢いにギャップを感じるわけで…
もう良いじゃないか、と思う。過去に一度でも、
同世代の熱を分かち合った経験があるのなら。
それだけでその人はもう、十分幸せなはず。
だからもう良いじゃない、
現代っ子と分かり合えなくても。
人生で一度も「ぜねれーしょん」とやらを、
味わえなかった人間もこうして存在する訳で。
と、
こんなモヤモヤを抱えたまま彫刻棟に行ったら、
普段はほとんど接点のない一年生の子が、
話しかけて来てくれて、嬉しかった。以前から、
Twitterで俺の作品を見てくれていたらしい。
素晴らしいね、SNS・・・
このブログを前から読んでいるという学生も、
割といて(高校の頃から見てるという子も)、
俺は「地道にSNSにアップするのって大事だな…」
とつくづく痛感しました。
(イイねが全く付かないブログでこんな事書くと、
何だか狂言めいてて怖いけどそれは言わないで)
途切れ途切れながらもブログを続けていると、
「見たい人はいつでもコッソリ見に来て、
見たくない人は一切見ないで済む。
そして俺自身、誰が読んでるかはわからない」
というブログの特性が、
ことごとく自分の性に合ってるなあと思う。
ひそかな私小説的表現、という位置づけ。
そんな渋い目的で書いている個人ブログすら、
どこかの高校生がスマホで読んでいたりする、
この事実がまた何とも示唆的に思えたり。
つまり何が言いたいかというと、
ジェネレーションギャップがナンボのもんじゃい!
ってことだ。
だから制作もブログもがんばろう、俺。
ブログ開設12年目で未だに記事数が183件とか、
ほんとナメてる。もっと書けよ俺!
で、その日は夕方から、
美術作家の関口光太郎君が多摩美の大ホールで、
大勢の生徒たちを前に教職論の授業を行なった。
俺は途中からしか聞くことが出来なかったけど、
「美術の先生は教室にカオスを持ちこむ存在」
という話になぜかとても勇気づけられた。そして、
やっぱり俺は、いつも独りっきりでいる作家が、
身がよじれるほど好きだと思った。
その夜、
関口君と彫刻科の学生達を交えて橋本で飲んだ。
俺は終始浮かれまくって、
汚物のピューロランドではしゃぐ子供のように、
一人で下ネタ連呼して、罵詈雑言吐きまくって、
まるで夢のようだった。そしてふと、
「相手の事がわからないのは、
わかろうとしていないからですよ」
という、
3年生の子がつぶやいた珠玉の箴言を思い出し、
「その通り」と深くうなずいたのだった。
つまり何が言いたいかというと、
ジェネレーションギャップがナンボのもんじゃい。
ゴルァ!!
ってことです。だから、
制作もブログも飲み会もがんばるよ、俺!
おしまい
by kan328328
| 2019-11-19 22:51
| アート