先週、とある人との会話で、
「若者に感じるジェネレーションギャップについて」
いろいろと話を聞き、改めて世代とは何なのか、
考えるきっかけになった。
ジェネレーションギャップ・・・
俺もそのうち悩む事になるのだろうか。
その人は「君ももう少し歳を取ったら感じるよ」
と言っていたけど、どうなんだろう。
自分は幼ないころから、
色々と禁止事項の多い家庭で育ったため、そもそも、
同じジェネレーションと共感し合えた事がない。
思い返してみると、
俺が青春時代を過ごした90年代というのは、
今とは比べ物にならぬ程TVやゲームの全盛期だった。
学校へ行って、友達同士「おはよう」を言う前から、
「何面クリアした?」とゲームの進行報告が始まり、
昨夜観たモジモジくんだの、オジンガーZだの、
みんながみんな同じ番組を観て、同じゲームをやり、
同じ感想を熱く語り合う。入学してから卒業まで、
ずーーーーーーーーーーっとそんな調子であった。
でも俺の家では徹底して、
ダウンタウン、とんねるず、志村けんの視聴厳禁。
スーパーファミコンなどすべてのゲーム機厳禁。
カップ麺、コカコーラ、マクドナルド厳禁。
という教育方針だったため、子供の俺には、
同級生が好きな物の9割くらいは理解できず、
会話の中にもまったく入って行けなかった。
休み時間に友達が「メラ!」や「ホイミ」などと、
ゲームの呪文を唱えてきても、俺は「そうか」
としか返せなかったし、
「ダイジョブだあ」と志村のマネをする友達には、
「大丈夫なら良かった」と返答した。
友達んちに遊びに行ったら行ったで、今度は皆、
ヒゲのおじさんをジャンプさせて喜んでいるし。
そこで交わされる会話に耳をそば立ててみても、
「クッパの…キノコが…ピーチに…チョコボした」
という、食べ物だか下ネタだかわからない、
謎の暗号しか聞こえてこなくて、俺の頭には絶えず、
「???」が浮かんでいた。
そうやって、
少しずつ俺の中に堆積していった疎外感は、
いつしか優越感へと転じ、中学に入った頃には、
「若者が集まると大体ろくでもないな」
という、さみしい確信を持つに至った。
そんな独断から高校も半年で中退し、それ以来、
自分の価値観だけを信じてやってきたつもりだ。
なので、
「ウチらの時代は最高だった!」的な、
ジェネレーションの自尊心なんて、ない。
「あの頃は良かった」なんて郷愁も、一切ない。
いつだって今が最高だし、過去はどーでもいいや。
人との距離感もずっと一定のままだし、
話す相手の年齢も、国籍も、性別も気にしない。
気にするのは、それが個人の意見なのか、
集団の意見なのか、ってことだけ。
相手があくまで個人の意見として語ることなら、
どんなに不道徳で退廃的な持論が展開されても、
そこにやむにやまれぬ切実なリアリティを感じるし、
できる限り共感し、俺も本音で話したいと思う。
逆に、どんなに真っ当で正義感あふれる意見でも、
相手が何らかの総意を担って話している様子なら、
俺は笑顔を崩さぬまま、ジリジリと後ずさりして、
西武線の終電にスルリと乗りこむだけだ。
「すみません、なんか黙って聞いていたけど、
まるで共同声明文を読み上げてるみたいですね。
おつかれっす!」
と捨てゼリフを吐いて。
「国のため」「日本美術のため」「社会のため」
とやたらでかい看板を背負って他を糾弾する人の、
フレーム思考の気安さからつい好戦的になる感じ、
FacebookとかTwitterでたまに出没する、
あのマウンティーングな感じ、鼻息荒い感じ。
一体、何なんだろう。
皆、何にそこまで脅えているのだろう。
何がそこまで自己不信を駆り立てるのだろう。
有識者の批評、集団の総意、歴史的正統性を、
自分の意見の後ろ盾なんかにせず、
一人で叫んだらいいのに。素っ裸で。
「若者にジェネレーションギャップを感じる」
という話に戻るけども、それだって、
自分が寄って立つ世代観があればこそ、
ニュージェネの勢いにギャップを感じるわけで…
もう良いじゃないか、と思う。過去に一度でも、
同世代の熱を分かち合った経験があるのなら。
それだけでその人はもう、十分幸せなはず。
だからもう良いじゃない、
現代っ子と分かり合えなくても。
人生で一度も「ぜねれーしょん」とやらを、
味わえなかった人間もこうして存在する訳で。
と、
こんなモヤモヤを抱えたまま彫刻棟に行ったら、
普段はほとんど接点のない一年生の子が、
話しかけて来てくれて、嬉しかった。以前から、
Twitterで俺の作品を見てくれていたらしい。
素晴らしいね、SNS・・・
このブログを前から読んでいるという学生も、
割といて(高校の頃から見てるという子も)、
俺は「地道にSNSにアップするのって大事だな…」
とつくづく痛感しました。
(イイねが全く付かないブログでこんな事書くと、
何だか狂言めいてて怖いけどそれは言わないで)
途切れ途切れながらもブログを続けていると、
「見たい人はいつでもコッソリ見に来て、
見たくない人は一切見ないで済む。
そして俺自身、誰が読んでるかはわからない」
というブログの特性が、
ことごとく自分の性に合ってるなあと思う。
ひそかな私小説的表現、という位置づけ。
そんな渋い目的で書いている個人ブログすら、
どこかの高校生がスマホで読んでいたりする、
この事実がまた何とも示唆的に思えたり。
つまり何が言いたいかというと、
ジェネレーションギャップがナンボのもんじゃい!
ってことだ。
だから制作もブログもがんばろう、俺。
ブログ開設12年目で未だに記事数が183件とか、
ほんとナメてる。もっと書けよ俺!
で、その日は夕方から、
美術作家の関口光太郎君が多摩美の大ホールで、
大勢の生徒たちを前に教職論の授業を行なった。
俺は途中からしか聞くことが出来なかったけど、
「美術の先生は教室にカオスを持ちこむ存在」
という話になぜかとても勇気づけられた。そして、
やっぱり俺は、いつも独りっきりでいる作家が、
身がよじれるほど好きだと思った。
その夜、
関口君と彫刻科の学生達を交えて橋本で飲んだ。
俺は終始浮かれまくって、
汚物のピューロランドではしゃぐ子供のように、
一人で下ネタ連呼して、罵詈雑言吐きまくって、
まるで夢のようだった。そしてふと、
「相手の事がわからないのは、
わかろうとしていないからですよ」
という、
3年生の子がつぶやいた珠玉の箴言を思い出し、
「その通り」と深くうなずいたのだった。
つまり何が言いたいかというと、
ジェネレーションギャップがナンボのもんじゃい。
ゴルァ!!
ってことです。だから、
制作もブログも飲み会もがんばるよ、俺!
おしまい