毎度のことだけど、展示が終わると、
自分の中にあった訴求力のようなものが、
スッと消え失せてしまう。
嬉しいわけでも、悲しいわけでもなく、
かといって虚無というわけでもない。
人間のふりだしに戻った感じ。
これは小学生の頃にふと思い立って、
17号沿いをひたすらチャリで走った時の、
あのまっさらな感覚に似ているな。
前橋の見慣れぬ景色の中で時間を忘れ、
踏みこむペダルの一足一足に満足を味わい、
その瞬間こぐだけのカタマリと化す感じ。
まっすぐで良かったな。
あのまま現在の年齢まで、
まっすぐこいで来れば良かったのにな。
13歳くらいから自我意識に蝕まれて、
何だかおかしくなったな。
昨日まで100円ガチャのスライムを、
ムギューッと引っ張って遊んでたガキが、
急に「人間とは?」「死とは?」と、
苦悩の波に溺れはじめるんだから、
思春期っておそろしいよ。
誰か見かねた大人が、
「おい君、波なんか来てないよ。
何で道路のまん中で溺れているの?
ここは群馬だよ」と、
当時の自分に教えてくれていたら、
きっと違っていたかも知れないな。
「怒りや悲しみ、嫉妬、虚無、不安は全て、
「時間」と同義なんだ。そして、
時間こそは妄想の産物なんだよ」と、
端的なプチ真理を教えてくれるだけで、
心の重荷を下ろすことができただろう。
でも、
そんなアドバイスをくれる大人なんて、
そうそう世の中いないのな。
せいぜい「いい心療内科を紹介するよ」
「運動と睡眠と親への感謝がありゃ治る」
とか言うのが関の山で。
てか、
大人なんてどこにいる?老け顔だけなら、
朝からパチンコ屋にズラリと並んでるけど。
だから、いつの時代も孤独な少年少女は、
崖っぷちギリギリの所で一人、
のたうち回るしかないのか、と思う。
リスカして万引きして根性焼きして、
ふと冷静に辺りを見渡した時に、あれ、
こんなに血ヘド吐いたわりには、
草木はただ草木として目前にあるし、
空は空として、スマホはスマホとして、
自分が存在するこの瞬間「だけ」を、
物質総出で保証してくれているな…
と、自分で気付くかもしれない。
そうやって「今」に気づくことが唯一、
本人の中で説得力を持つ瞬間なんだろな。
であれば「生きていればいずれわかる」
などという、時間軸に依拠した教訓に、
何ら真実はないわけだ。
必要なのは、瞬時の気づき、それだけ。
それだけで「アイデンティティ」とかいう、
自分だけの価値体系は瞬時に崩れ去り、
何にでも挑戦できるようになるのだな。
逆に、その気づきがないと、
メディアなりSNSなりイデオロギーなり、
誰ぞが発信する価値を信じるしかない故、
視野はどんどん狭まり、周囲が敵に見え、
終いには手も足も出なくなって窒息だ。
ああ、だから「価値」なんて、
あくまで人間の考えたゲームだって事を、
忘れないようにしたいな。いつだって。
万物全て粒子のツブツブでしかないなら、
そこに優劣のヒエラルキーは存在しない。
文化もまた、並列に見る視点が必要かも。
たしかに、美川憲一の柳ヶ瀬ブルースも、
ブルーチアーのサマータイムブルースも、
どちらも熱帯夜に聴くとシビれるよな。
アンパンマンも、ベルイマンも、
主役は水の洗礼を受けて泣いているよな。
アラン・ヴェガも、スト2のベガも、
ヤバいオッサンとしては理想の姿だよな。
アグラかいてフォアグラ焼いて良いよな。
みんなちがって、みんないいよな。
でもこんなフラットな価値観を説く男が、
美大で講評なんてしちゃいけないかもな。
価値を考慮しない地点に、
批評なんて成立しないわけだから。
そんでもって時間性の否定は、
綿々とつづく歴史性の否定でもあるしな。
だからこんなタワゴト、もうやめような。
そうだ、前にFacebookもやめるって、
このブログに書いたっけな。
価値の否定を説くくらいだから、
Facebookなんて簡単にやめられるよな?
どうなの?
いや、もうちょい続けます…
美術作家・三宅感のブログです
by kan miyake
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