水にゆらぐ
2020年 07月 12日
前期授業が終わってからも時おり、
学生さんが連絡をくれたりする。
進路相談でも、制作上の悩みでも、
話の根っこにはいつも「自分とは何ぞや?」
という、切実な問いが息づいており、
毎回俺の方がたくさんの気づきをもらう。
「自分が何をしたいのかわからない」
という悩みに、俺はいつも、
「急いで作家になろうとせず、
自分のためにジッとしている時間」を、
推奨したくなる。したくなるのだけど、
「相手は未来ある若者だし、
もっと行動をうながすような助言をしろ」
などと、
通俗的な自分も顔を出したりするので、
事はややこしい。
自分は20代の頃、
大金を投入した自主映画が中断した時、
何年間も前にも後ろにも行けず立ち往生し、
「早く実績を残さねば」と焦っては、
空回りしつづけた。
それでも、
「観た人の記憶に一生涯残るような、
衝撃的な作品を作りたい」という、
モチベーションだけは絶やさずにいたが、
そもそも人の記憶に残り続ける物とは、
それがどんなにポジティブな装いであれ、
低温火傷のようにジワジワと何年もかけて、
人の心を傷つけ続けている、という事だ。
そしてそれこそが芸術の意義でもある。
それに気がついたとき、
「なんてメンドくさい世界なんだ…」
と思って、ゲンナリした。
映画の編集はいつまで経っても進まず、
友人は一人また一人と離れて行き、俺は、
「今さら何をしても遅い」という諦めと、
ただただ浪費されていく時間を前に、
なす術なく、毎日眠り続けていた。
バイトがない日などは大抵、
昼前ぐらいにモソモソと布団を抜け出すと、
読書をし(その頃聖書ばかり読んでいた)、
インスタントラーメンなど作って食べ、
満腹になって、また寝る。
再び目が覚めると、外はもう夕暮れ時で、
閉じ続けたまぶたは腫れぼったく、
胃には炭水化物のモタつく未消化感もあり、
そんな不摂生な己が情けなく、またしても、
布団へともぐり込む。
とことん無為の日々であった。
制作している時などに不意にギラリと、
根源的な問いを投げかけてくるのだ。
「お前もずいぶん行動力がついた。
講師だか何だか、まるで、
過活動が善であるみたいなツラして。
何かあるとすぐに制作、制作か。
人は何かしてなきゃダメなのか。
「何もしない」じゃダメか。
今お前が生きている、
そのまんまの様子じゃダメか。
外にも出ず、物も作らず、金も稼がず、
ウヌボレもせず、自虐もせず。
比較も、判断も、何なら反応すらしない、
空気のような人間ではダメか。
「世間に恥じぬように生きたい」などと、
せこい目配せは捨てたらどうだ。
来る日も来る日も眠り続ける生活、
下宿で、公園で、晴れた日の土手で、
寝そべっている人生ではダメか」
という問い。
それに対し、俺は、
「ダメではない。むしろできるなら、
流れ続ける水のような生活がしたい」
と、答える。
本当にそう思う。
ただ、水のように生きたい。
それができないのは、
「いやまだまだ!」と飛び出して行って、
何かを証明しようとする自分もいるから。
そうやって風船のように、
エゴを膨らませたり縮ませたりしながら、
これからも生きていくしかないのだ。
by kan328328
| 2020-07-12 01:06
| 日常