語りえぬもの
2022年 08月 27日
某新興宗教団体と政治家との癒着が次々に暴かれ、それに呼応するように国民の批判が加熱していく様子を見ていると、83年生まれの自分としては、どうしてもオウム真理教やさまざまなカルト集団が摘発されていった90年代の日本を思い出してしまう。
1995年当時、まだ小学生だった自分にとって、おどろおどろしいテロップやBGMとともに流れるオウムの報道番組はあまりに強烈であった。頭にヘッドギアをつけた若い信者が、過酷な修行によって黒く腫れあがった足のうらをTVレポーターに見せつけ「ここに悪いカルマが溜まっているんです」と嬉しそうに答えていたり、教祖・麻原が入浴したあとの残り湯や尿を信者たちが飲んでいる証言などは、子供ながらに「人間のほの暗く屈折した性のようなもの」を見せつけられるようでショックだった。
麻原を讃える歌『尊師マーチ』の「ショーコーショーコー♪」というメロディーは自分が通っていた小学校でも大流行して、音楽の時間になるとリコーダーで吹きはじめる子や(吹けない子はまずいなかった)、休み時間にふざけて合唱している子もいた(大人に怒られる歌ほど子供は歌いたくなる)。
その後、TVの生放送中にカメラの目の前でオウムの幹部が刺殺され、その様子が連日ワイドショーで流されつづけるという事態にまで至り(今回の安倍元首相の銃撃事件との共通点を感じる)、報道する側・される側・見る側の三者が互いに影響し合って、どんどんヒートアップしていくような印象があった。
オウム事件以降の数年間は、テレビを付けるたびに濃ゆいカルトキャラが現れては消えていったのを覚えている。シャクティパット(手のひらで患部を叩く治療法)を提唱する自己啓発団体の宿泊先でミイラ化した遺体が発見されたり、教祖と信者たちの「最高ですかー!?」「最高でーす!!」のハイテンションなかけ合いで話題になった新宗教団体が霊感商法による詐欺罪で摘発されたり、2000年代に入るとうずまき模様のステッカーを車中に貼りめぐらせた白装束集団が大移動する様子がニュースで話題になったりした。
こういった一連の報道によって、10代だった自分の「宗教」に対するネガティブなイメージが植えつけられた気がする。当時はまだ、宗教とはどんなものかと図書館で調べてみるほどには世の中のことに興味がなかったし、「既成宗教」と「新興宗教」と「カルト」の線引きなんかも、かなりあいまいだった。
これは自分や周囲の人々を見ていて感じた印象に過ぎないけど、90年代というのは今に比べるとまだまだ、新聞やテレビといった主要メディアが一方的に流す情報(編集や演出による印象操作は今よりずっと露悪的だった)を素直に受け入れている人が多かったように思う。それ以外で独自に追及したい人はきっと、大きな本屋や図書館などに行って参考文献にあたったりしたんだろうけど、多くの一般的な人の場合、大きな事件が起きたときにはまず新聞やテレビや週刊誌に目を通し、そのあとで家族と夕飯どきに語り合ったり、職場で同僚と話し合ったり、習い事なりサークルなり自分が属するコミュニティーでいちばん物知りな人にお伺いを立てたりとか、その程度の範囲で情報共有し、かつ納得していたんだと思う。
それに比べると今は、事件が起きるとすぐにネットで詳細を知ることができて、SNSを見て全国の見知らぬ人々の意見を比較検討することもできるし、かつリアルタイムで「NO!」を表明することもできる。なんか本当に風通しのよい社会になったと思う。
だからこそ、というか、いま全国的に高まっているであろう某宗教団体に対する批判が、かつてのオウム事件の時のようにエスカレートして「宗教はすべて有害である」という極端な風潮が形成されなければいいな、と思う。オウム事件以降の世の中には、「宗教」という言葉を口にすることすら許されないような空気があった。
自分はこれといって信仰している宗教はないけど、昔からずっと生きづらさのようなものを抱えていて、20代の頃はそれを解消したいがために文学や哲学や心理学、聖書や仏教書などをかたっぱしから読みあさって、かなり救われたと思っている。
たとえば旧約聖書の『ヨブ記』で、神から次々に与えられる試練を信仰によって耐えしのぶヨブの姿と、「マジ使えねーアイツ」と陰で笑われながらも「これも芸の肥やしよ…」とさまざまな労働を耐え抜いてきた自分の姿を重ね合わせてはしみじみと慰められたし、『伝道の書』でコヘレトが嘆いた「空しさ」と、詩人ウマル・ハイヤームが『ルバイヤート』の中で嘆いた「空しさ」には同質の重さがあると感じ、「国や時代や社会的立場が違っても、みんな最後はおなじ空しさに行き着くんだなあ・・・」と共感したりした。
この両者の「空しさ」というのは、自分にはなぜかとてもなじみがある気がして、毎回読むたびに心の根っこの部分からなつかしい寂しさがジワジワと浸透してくるような、ふしぎな安堵を覚えた。あとで気がついたのは、自分はそこに学生時代に古文などで習いおぼえた「仏教的無常観」のようなものを勝手に嗅ぎとっていたらしい。
いつの頃からか「常ならむ世を儚む書物」というのが、自分の心情にはいちばんしっくりくる気がして、だからもし死ぬ前に一冊だけ本を読めるとするなら、断然『方丈記』がいいと思う。鴨長明の霞がかったような文体には、日々刻々とうつろいゆく浮世の儚さが満ちていて、昭和・平成・令和とアッチコッチ翻弄されつづけたこの一生がじつはぜんぶ夢まぼろしで、ある晴れた日に気がつくとひとり河原に寝そべり、「人生」という長い長い白昼夢を見ているだけだったと気がつく・・・そんな自分の死に際を妄想したりして楽しんだ。
また、そういう心の余韻にふけるくらい、過去から未来に向けて一続きに流れているように思えてしまう概念(時間、妄想、不安、感情、歴史、物語、記憶、言葉など)を、前後ともどもまっぷたつに裁断して「今ここ」のただ中に居させる坐禅の実践に、自分は実生活において何度感謝しても足りないくらい救われたのだった。
だから、そうやっていつも頭からダラダラと汗を流しつつ、お守りがわりに読書してきたような自分からすると、この世界からもれなく宗教が一掃されて(それは多分あり得ないけど)、「思想的立場」や「政治的信条」や「承認欲求」や「経済合理性」のようなもの(あいつは使えるとか、使えないとか…)だけで人間が動き回っている未来というのは、もはや恐怖でしかない。
たとえどこかのエラい人が「脱魔術化した近代」と唱えたところで、そもそも言語そのものが最も強力な魔術ではないのか、と思う。言語によって皆が皆、長年かけて頭の中でこり固めたマイ・ストーリーの主人公になっていて、しかもその全員とも「自分こそが正しい」と信じている。そんな人間が何十億と集まって生きているこの世界で、人間の理性や法や契約だけを頼りにして、本当に平和が成立するのだろうか。正直、人間の良心といわれるものですら疑わしいと思っている。
自分がひねくれているだけかもしれないけど、たとえば「君を幸せにしたい」とか「この町をもっと明るくしたい」とか「あの人を改心させたい」とか「みんなが笑顔になってほしい」といった、一般的には善意が動機となっているような言葉にすら、そこにある種のごう慢さのようなものを感じてしまう。
なんで人は相手のことばかり変えたがるのだろう?
「〜にしたい」とか「〜にさせたい」とか「〜になってほしい」とか。目の前で生きている相手の様子そのままじゃ、なぜダメなんだろう?自分の価値判断でムリやり相手を変えようとする前に、そうせずにはいられない己の内なる動機を探った方が(大体そこに原因がある)、よっぽど世界に平和が訪れるんじゃないか、と思う。
いま自分の知り合いで思い浮かぶ五人がそれぞれ別の宗教を信仰しているけど、みんなとても利他的で親切な人ばかりだ。
そして、どの宗教においてもごく一部には過激化した原理主義者たちが世界に存在するも事実だし、人目に触れない場所で権威を笠に着た宗教犯罪が行われているケースもたくさんあると思う(数年前にはミャンマーの仏教ナショナリストたちがロヒンギャを迫害しているとして国際問題になったし、ここ数年ではカトリックの聖職者たちによる直近で70年にもおよぶ児童性的虐待が明るみになったという悲惨な現状もある)。
ただそうした教義から外れた悪しき信者たちのスキャンダラスな面にばかり焦点を当てて、母体となる宗教そのものを否定することはやっぱり間違っている(その宗教組織そのものが犯罪を生む温床だったというのなら、それは犯罪者がかつて通っていた学校や勤めていた会社なんかにも適用できるリクツになってしまう)。それに「彼が犯罪に走ったのはこういう環境で育ったせいです」と安直な因果関係でまとめて説明できるほど、人の行動要因ってそんなに単純なものじゃないと思う(たとえ犯人がそう供述していたとしても)。
それよりも一般の人々の「自分のため、お金のための活動」という資本主義社会においては健全な(?)利己心とはまったく別の、「地球」とか、「生命体」とか、より大きな単位に向けて祈りを捧げたり、昼夜問わずひたすら坐禅している人たちが世界に存在しているという事実を忘れないことの方が、よっぽど大切なんじゃないか。そういう人々が発するバイブスがじつは、我々の平穏な生活を陰で支えているんじゃないか、と思っている(バイブスというと何だかスピリチュアル臭いけど、その人間や場自体が発している波動のようなものはたしかにあって、一緒にいると安心する人、初めて行ったのに落ち着く場所などが存在する)。そういう可視化もできず、定量化もできないけど大切なもの(というより見えないからこそ大切なんだと思う)」をもっと尊重すべきなんじゃないか。
他者と相対するときにも、まずは頭の中から相手への先入観を取り払ってまっさらな状態で向き合い、自分と比べず、ジャッジせず、変えようとせず、ただ互いの存在を感じて違いを認め合うような、そういう人間関係が誰とでも構築できたらいいのに、と思う。
とはいえ、たとえば自分が属する障害福祉の世界においても、成立した背景などを踏まえるとやっぱり思想的な傾向はあるし、美術大学は美術大学で、何千と重ねられてきた美術史のレイヤーを通した上で作品価値を問われたりするので、どうしてもジャッジメンタルな指向性を育てやすい。何ごとに対してもやたら批評的になるのだ。
社会の中にひそむ違和にいち早く気づいて問題を指摘したり、対話によってリベラルで抑圧のない社会を形成していく上で、言語による批評というのは欠かせないものかもしれないけど、その反面、言語獲得とともに失ってしまうリアリティーというものがあるんじゃないか、と思う。目の前にひろがるこの世界の現物の生々しさというか、五感を通して入ってくる端的な印象のようなものというか(もし目の前に置かれたリンゴひとつの様子を余すことなく口で説明しろと言われたら誰でも、一生かかっても時間が足りないだろう!)。
自分もまた、年をとるごとにガラクタみたいな言葉ばかりどんどん蓄積してきていて、目前でくり広げられる現象に対してあーだこーだとカテゴライズできるようにはなったけど、それと引き換えに、この世界が「音を立ててうごめく色とりどりのメディウム」として見えるような直接的な体感が、どんどんなくなってきた気がするのだ。
最近は「言葉にできないもの」の大切さについて、ずっと考えている。
そのキッカケになったのが、家族で奥多摩へテントを担いでキャンプに行ったり、息子と二人で川遊びをするようになったことがある。
こないだは、国分寺から世田谷へと続く野川という一級河川で、息子と二人で水中生物をつかまえて遊んだ。この川では、水底でタモ網をかるく揺り動かしただけで、たちまち、ヤゴ、シマドジョウ、エビ、ザリガニなどがかかる。すっかり住みなれた家から少しだけ離れた場所に、こんなにも豊かな生態系が形成されていたことにまず驚いたし、生き物たちはどれも図鑑で見るのとは、色も、大きさも、動きも、すべてにおいて違っていた。
川に膝までつかってザブザブと下流へ進んでいくと、身体的なインパクトが次々と立ち現れてくる。
青臭さの中に人工的な甘さが混じったような川の匂い、場所によって微妙に変化する水温、足の指の間にまとわりついてくる砂利の細かさ、サンダルごしに伝わってくる藻のヌメヌメした感触など「これは言葉にしたとたんにニュアンスが消えてしまうな」と何度となく思った(今言葉にしてるけど)。まるで、人間が一時でも観念から離れて「今この瞬間」だけにいられるように、あの手この手で自然が働きかけてくれているような、そんな都合のいい解釈までしたくなるくらい、あらゆるバリエーションの刺激を自然は与えてくれるのだった。その感想を一言でいい表すなら「リアル!」に尽きると思う。
そんなわけで、川遊びを終えて息子と自宅へ戻るときは、さっきまであらゆる曲線に囲まれていたはずの景色は直線だけになり、ヌメ!ゴツ!ザラ!と一歩一歩が不確定だった歩行感覚はまったく意識されないくらい平坦になり、目の前にはただ行動を指し示すだけの標識や信号や広告がどこまでも合目的的、あまりに合目的的に!続いているのを見て、ガクッとした。そんな記号だらけの空間では、川にいるときにはほとんど意識されなかった「私、私」という意識がムクムクと肥大化してくるのを感じて、あーヤダヤダと思いつつも、飽きてしまったオモチャでまた遊ぶような感じで「私が、私が」と頭の中でグルグルやるのだった。
「言葉にできないもの」について考えるようになったもう一つのキッカケは、こないだアマゾンプライムでたまたま観た、ケリー・ライカート監督の「ライフ・ゴーズ・オン(原題:Certain woman)」という映画に感動したから。劇的なストーリー展開や過剰演出に陥らず、環境音や光線、登場人物の視線の交わりといった、言語外の要素にとても豊かなものが息づいていて、登場人物である女性たちがセリフでは決して言い得なかったことを環境が代弁してくれているような、静かで胸がしめつけられる映画だった。
エンディングを迎えた後も、頭の中でずっと彼女たちの日常が続いていくような気がして、「ああ、こういうの大事なんだなあ」と思った。この監督は、主役の女優たちに向けるのと同じくらい、映画のエキストラである市井の人々の姿にも、おんなじ熱量のまなざしを向けている事が画面からヒシヒシと伝わってくる。それもなんだか嬉しかった。
いまだに勧善懲悪の下、わかりやすく仕立てあげた悪者をボコボコに惨殺しまくるヒーローアクション映画が量産される一方で、こんなにも人間理解に優れたインディー映画が制作され、かつそこにベテランのハリウッドスターたちが続々出演し、しっかりと評価までされるアメリカという国は、やっぱり器がでけー!と改めて感動したのだった。
そしてこの映画の鑑賞中、何度も頭をよぎったのは、90年代後半に観たミニシアター系映画の数々だ。やはり自分の青春はこの頃に形成されたのだ。
クレール・ドゥニ監督の「ネネットとボニ(1996仏)」、リサ・チョロデンコ監督の「ハイ・アート(1998米)」、エリック・ゾンカ監督の「天使が見た夢(1998仏)」、カリーヌ・アドラー監督の「アンダー・ザ・スキン(1997英)」(同タイトルで2014年のSFホラー映画とは別物)。
単館系映画館の小さなスクリーンで観たこれらの映画は、どれも日本ではほとんど話題にならなかったけど、主役の女性たちが抱えている「等身大の孤独」のようなものをとても丁寧に描いているという点で共通していて、暗いサブカル青年であった自分の心に、忘れられない痛みとほのかな希望のようなものを残した(上に挙げた映画がほぼ女性監督なのは単なる偶然ではあるけど、どこか示唆的でもある)。
等身大の孤独。これは大学に自刻像とも半具象ともつかぬ木彫作品を作る学生がいて、その人の作品を初めて見たとき頭の中にポッと浮かんで本人に伝えたフレーズだ。この「等身大」というのは自分にとって何より大切な尺度で、いまの自分を否定して何者かになろうとせず、不完全と思える今を黙って受け入れるやさしさのようなものは、わざわざ文字や言葉を介さずとも(むしろそれを超えるほどの沈黙でもって)作品から相手へと伝わっていくんだな、と気づかされた。周囲に変な目配せをせず、ただしずかに屹立している彼女の作品の佇まいに、年齢も性別もこえたこんなオッサンでも心動かされて、やっぱり作品固有のアウラってのがあるんだな、と思った。
何だか、アウラやら空気やらバイブスやら波動やらと書いてきて、いったい自分は何が言いたかったのかわからない。わからないけど、ここまで長々と思いつくままに書いてきたことを無理にヒモづけようとせず、このままモヤモヤしていたいような気持ちである。
by kan328328
| 2022-08-27 12:43
| アート