マドレーヌ 紅茶に浸さず じかに食う 

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5月に行ったパフォーマンス〈ラブレター・フロム・セナカ〉展示風景1

40歳になったので、久々にブログを更新しようと思う。今年は前厄らしい。

SNSやブログを通じて「他人に自分のことを知ってもらいたい」という気持ちが年々薄くなってきている。表現欲求が減退しているようで寂しくもある反面、「これは次世代を育てる生物としての自然な変化なんだ」という気もする。まだまだ幼く要求の激しい息子たちと日々向き合い、6つ掛け持ちしている仕事(重度訪問介護員×3件、福祉作業所職員、高校美術教員、大学美術教員)では、ダクダクと汗水流して大勢の若者たちと向き合っている。毎日一喜一憂するし、いろいろとしんどい事も起きるけど、それでも、独りっきりで作品世界にこもっていた頃とは違う、なんというか「より全人類的なビジョン」のようなものが芽生えた気がする。そうして日々人間に揉まれる生活を送っていると、日常の些事を逐一文章化して他人とシェアするよりも、ただ黙って現実を受け入れる方が、今の自分にはしっくりくる。それでもたまに「ああ、こうやって人は作家活動から離れていくのか」と気づいてゾッとすることもあり、なのでこうして無理くり文章をひねり出してブログを書いている。

日常の中でふと感じたイメージのようなもの、その印象にできるだけ近づけるよう、言い回しを慎重に選びつつ文章に起こす。推敲に推敲を重ね、何度も読み返して、ようやくブログにアップする。その行程がもどかしい。こうやって文章をこねくり回している間、いったいどれくらい生身の時間を浪費してしまったのだろうか、と思う。グルグルと頭で逡巡している合間にも、さっきまでの鮮明なイメージは色褪せ、感情もまた刻々と移り変わり、数分前とはまるで違う感慨に至っている自分に気がつく。そうなるともう、過ぎ去った感覚に再びアクセスしようという姿勢自体が、何だかみみっちく後向きな気がして、途端にどうでも良くなってしまう。実際、ほとんどの観念は自分にとってどうでも良いような、やたら揮発性の高いシロモノに思える。

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〈ラブレター・フロム・セナカ〉展示風景2

「言葉」って何なんだろう?と考えながら、自分の手を見つめる。「赤」とも「ベージュ」とも「黄土色」ともつかぬ肌の色味、縦横無尽に走る細かなシワ、ボコボコと隆起する血管の生々しさ、機能性を誇示するかのような爪の存在感。こうした汲めども尽きぬ豊かな印象が、いざ「言葉」の魔手にかかると、ぜーんぶ引っくるめて「手」という一文字で片づけられてしまう。Aさんの白く細いそれも、Bさんの毛深くたくましいそれも、等しく「手」というカテゴリーに集約されてしまう「言葉」の、恐ろしいほどの無神経さよ。森羅万象すべてを言い表せるかのごとく、「言葉」は人間文明のど真ん中をドヤ顔で闊歩しているけど、たとえば、指を1mm動かした「この瞬間の手」と、「その寸前の手」を言い分けることすらできない。「手の平と手の甲のあいだにある無限の形状を、言葉は何一つ言い表すことができない」と、とある禅僧が提唱録で語っていて、目からウロコが落ちた。

「言葉」がかつて、世界の片鱗に触れたことなどあったのだろうか?発話されるそばから次々に「現在」を取り逃がしていくような、こんなにも遅くて解像度の低い道具と、いま目の前で刻々と変化していくこの精妙巧緻な「現実世界」と、何か少しでも関係があるのだろうか?「言葉」はアレとソレを選り分けたり、他者に指し示したりするための便宜上の道具にすぎないということを、自分は忘れたくないと思う。「現実」と「言葉」の癒着が激しい人ほど、あのリンゴとこのリンゴの差異に気づけず、見る物すべて既視感にあふれ、心には実感に乏しいテンプレ言葉ばかり浮かんでるんじゃないか。いや、その逆かも。わからない。全然わからない。

それでも、変化するもの何でもかんでも強引に固定させようとする「言葉」の弊害について、もっと考えてもいい気がする。最近のニュースを見ていると、特に思う。「私はこういうキャラです」というセルフイメージを固守する人ほど、他人の評価との温度差に深く傷ついてしまったり、物語仕立ての復讐心を何年も頭でループさせつづけた人がやがて凶行に及んだり、レトリックだけでこしらえた「来たるべき社会と理念」に基づいて行動する人が、敵認定した他者を容赦なく糾弾したり、殺害したり。そして、こんな駄文を長々と綴ってしまう自分も含め、つくづく「言葉の奴隷だな」と思う。「あれがあったから今の自分がある」「あんな事さえなければこんな事にはならなかった」と、わかりやすく甘辛なドラマエキスを脳にたっぷり塗られ、体はすでに過去と未来で串刺しになっていて、なんか「人間焼き鳥」って感じです。

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〈ラブレター・フロム・セナカ〉展示風景3

異なる発音の組み合わせだけで感情を乱高下させてしまう人間ではある。「ス」の発音の後に「キ」と言われればドーパミンが出て嬉しくなるし、「バ」の発音の後に「カ」と言われればノルアドレナリンが出て怒りが湧いてくる。そんなビックリするくらい単純なメカニズムに支配されている限り、互いに対立し合い、果ては殺し合いにまで発展してしまう運命なのは、至極当然とも思える。そんな人間という存在、というか自分自身が、何だか悲しいです。

悲しいといえば、今年は本当に悲しいことが続いた。母がバイクで事故って入院したこと。そのすぐ後に実家の祖母が亡くなったこと(女手一つで働きに出ていた母の代わりに、僕ら姉弟の面倒を見てくれていた)。毎回僕の作品を地方まで見に来て撮影までしてくれたNさんが亡くなったこと。ひさしぶりに健康診断を受けに行ったら「WPW症候群」という謎の病気を告げられたこと。辛いことって重なるものだ。
もちろん良いこともあった。5月に世界遺産である富岡製糸場でパフォーマンスしたこと。突然スパイスカレー作りにハマったこと(新大久保のイスラム横丁で仕入れてきたスパイスを使って、ほぼ毎日インドカレーを作っている)。大学の先生からの紹介で、今年の春から埼玉のとある私立高校で美術を教えるようになったこと。
集団行動になじめずに高校を3ヶ月で中退し、大検を取得して入った美術大学にもほとんど行かなかったような自分が、今はその両方で美術を教えている。本当に不思議な縁だと思う。

by kan328328 | 2023-07-30 23:55 | 日常

美術作家・三宅感のブログです


by kan miyake
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