一橋学園に

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高円寺から一橋学園駅(国分寺から西武多摩湖線で一駅)に引っ越します。
二月末です。皆さんぜひ遊びに来てください。
駅から歩いて4分の二階建て一軒家です。
6畳×3、4畳半×3、3畳×1、トイレ×2、風呂、キッチン、庭付き。
敷金1礼金1で、75,000円也。
普通にでかいです。家賃は今のアパートと変わらないのに、部屋が3倍以上になります。すごい物件ですよね。
ようやく自分のアトリエが持てそうです。

アルバイトしながら、制作をしている現状について書きます。
思春期の少年の文章のようになってます。

美大を卒業して早3年が過ぎました。
半年前に撮影した映画は、映画の基礎も全く知らないまま、自分に出来る範疇を完全に無視して、友達を無理やり引っ張ってきて、ほとんど意地のような状態で撮影しました。
あれから、周りはとても静かです。
「表現とは何か」を熱く語っていた人達は、様々な事情でとうの昔に社会へと消えていきました。
在学中、「今は、ものを作っている学生に囲まれていてわからないだろうが、卒業して一人になってからが本当の勝負だよ。」と先生が言っていたのを、よく思い出します。

その通りだなあ、と思います。

卒業してすぐは、どうしても美大時代の熱さ、というか、モチベーションの高い作品や人を基準に考えていました。
それを卒業してからも周りに求めるのは、全くのお門違いでした。

今まで本当にたくさんの展示を見に行きました。
俺は会場でほとんどの場合、作品の説明を求めるのですが、白い眼をして「空気が読めない」と責められたり、にやにや照れながら「君に説明してもね・・・」と断られたり、会場がただの同窓会になっていたり。満足いく説明を貰った事など、ほとんどありません。

何もない会場に、小さな作品がポツリ、たったそれだけでも、見に来た人に不思議な緊張感を与えてくれる作品というのもあります。そういう場合、どこまで作家が真剣に仕事を詰めているかがわかります。しかしこういう例は稀で、ほとんどの展示の場合、緊張感もへったくれもありません。魂に揺さぶりをかけてくれる様な作品にはなかなか出会えません。

芸術にも、出会う人間にも、「魂」を求めるのは、間違いでしょうか?
皆が笑うように、それは古い価値観でしかないのでしょうか?
単なるスポ根でしょうか?
今の時代、知識人のテキストしかアートになり得ないのなら、情熱のままがむしゃらに絵を描いてる人は皆、ただのペンキ屋だとでも言うのでしょうか?

一昨日会った青年にシンパシーを感じたのは、強烈な「生」を感じたからなのでした。
ただのむき出しの人間を見て一番ドキドキさせられたっていうのが、物を作っている側として妙に空しいです。感情を言葉にできず、もがきのたうちまわって暴れている人に近づきながら、これこそ他人事で軽薄な行為だと思いつつ、惹かれてしまったのでした。「近づいた」ではなく、「惹かれた」が正しいです。

学生時代、彫刻科のOBが何人か集まり、後輩たちに「表現とは何か」について、壇上で語ってくれた事がありました。その中に一人、言葉に詰まり苦渋に満ちた顔で
「表現を続けるっていうのは・・・正直、地獄だ・・・」みたいな事を呟いた作家さんがいました。
彼からは何か、とてつもなく厭世的なムードが漂っていて、「ああ、俺はこうはなりたくない」と、当時思ったものでした。
今の自分には、他人事ではありません。
真剣に考えれば考えるほど暗くなり、人に正面きって向き合おうとすればするほど煙たがられ、徐々に「誰もわかってくれない・・・」と厭世的になっていく思考プロセスは、至って自然な流れです。

日々はただ、ゆるやかに流れて行きます。

比較する対象がいないので、自分の現在の立ち位置を測る術もありません。
でも、わからないながらに、たとえ独学であっても、これからも闘っていこうと思います。周りに熱意を求めるくらいなら、自分でやるべきだと思うからです。

新しい部屋の壁は、紫と黄色に塗ろうと思います。
尋常ではなくなる気がします。
上の写真は、火星です。感
by kan328328 | 2009-02-02 00:38 | 日常

美術作家・三宅感のブログです


by kan miyake
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